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南北朝の動乱 なんぼくちょうのどうらん

🕒 1336年 〜 1392年10月 👑 建武の新政
📍 場所: 京都府 京都、吉野(奈良県)、および日本全国 👤 関連: 足利尊氏,後醍醐天皇
1336年、建武の新政に失敗した後醍醐天皇に対し、武士の支持を集めた足利尊氏が反旗を翻して勃発した巨大な内戦です。京都を制圧した尊氏は新しく光明天皇を立てて北朝(ほくちょう)とし、逃げた後醍醐天皇は奈良の吉野で南朝(なんちょう)を開きました。日本に二人の天皇が存在するという異常事態は、全国の武士たちの領地争いを巻き込んで泥沼化します。1392年に第3代将軍・足利義満によって統一されるまで、約56年間も続く室町時代の歴史の決定的な契機となりました。
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崩れゆく建武の新政と不満

鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は天皇中心の政治である建武の新政(けんむのしんせい)をスタートさせました。しかし、命がけで戦った武士たちへの恩賞(ご褒美)は少なく、貴族ばかりが優遇される不公平な政治でした。武士たちの不満は頂点に達し、「誰か自分たちのリーダーになってくれる強い武士はいないか」と、源氏の血を引く有力な武将・足利尊氏(あしかがたかうじ)に大きな期待を寄せるようになっていったのです。
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無断出撃!中先代の乱

1335年、滅亡した北条氏の生き残りである北条時行が、鎌倉を奪い返すために反乱を起こします(中先代の乱)。尊氏は「鎌倉を助けに行くから、私を征夷大将軍にしてほしい」と天皇に頼みますが、天皇はこれを拒否しました。なんと尊氏は天皇の命令を無視して、勝手に軍を率いて東へ向かい、反乱軍をあっという間に撃破して鎌倉を取り戻しました。これは絶対的な権力に対する、武士たちの静かな反逆の始まりでした。
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尊氏の決断と武士の熱狂

鎌倉に入った尊氏は、天皇の許可を得ないまま、一緒に戦った武士たちに勝手に土地をご褒美として分け与えました。「天皇よりも、尊氏様の方が俺たち武士の生活をわかってくれる!」と、全国の武士たちは尊氏を熱狂的に支持します。京都へ帰ってこない尊氏に対し、激怒した後醍醐天皇は「尊氏は反逆者である。直ちに討伐せよ!」と命じ、かつての仲間である新田義貞(にったよしさだ)を大将とする討伐軍を鎌倉へ向けて派遣しました。
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箱根・竹之下の激突

朝廷の軍勢が迫る中、最初は「天皇とは戦いたくない」と寺に引きこもっていた尊氏でしたが、弟の足利直義がピンチに陥るとついに出陣を決意します。1335年末、箱根・竹之下の戦いで尊氏軍は新田義貞の軍を打ち破りました。勢いに乗った尊氏は、武士たちの期待を背負ってそのまま大軍を率いて京都へと攻め上ります。ついに、かつて鎌倉幕府を一緒に倒した武将たちが、天皇の味方と尊氏の味方に分かれて激突することになったのです。

九州への逃亡と奇跡の復活

京都へ攻め込んだ尊氏でしたが、東北地方から駆けつけた天皇方の猛将・北畠顕家や、知将・楠木正成(くすのきまさしげ)らの猛反撃に遭い、大敗を喫してしまいます。命からがら船で九州へと逃げ延びた尊氏。しかし、武士の心をつかむ天才であった彼は、九州の武士たちを巧みに味方に引き入れ、わずか数ヶ月で再び巨大な軍勢を組織することに成功します。そして、再び京都を目指して怒涛の進軍を開始しました。
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悲劇の英雄、楠木正成の最期

1336年、海と陸から大軍で迫る尊氏を迎え撃つため、後醍醐天皇は再び楠木正成に出陣を命じます。正成は「今の尊氏とまともに戦えば必ず負ける」と天皇に作戦変更を訴えましたが、聞き入れられませんでした。死を覚悟した正成は、現在の兵庫県で行われた湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で尊氏の圧倒的な大軍に突撃し、壮絶な戦いの末に自害します。天皇方の最大の守護神が散り、尊氏はついに京都を制圧しました。
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二人の天皇、二つの朝廷

京都を占領した尊氏は、後醍醐天皇を追い出し、新しい天皇(光明天皇)を即位させて念願の幕府を開く準備を進めます。これが京都の北朝(ほくちょう)です。一方、京都を逃げ出した後醍醐天皇は、奈良県の険しい山奥にある吉野(よしの)に逃れ、「私こそが本物の天皇だ!」と宣言しました。これが南朝(なんちょう)です。日本に二人の天皇と二つの政府が同時に存在する、異常な事態へと突入しました。
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終わらない内戦「南北朝時代」

こうして、1336年から始まる南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本全国の武士たちを巻き込む果てしない内戦となりました。武士たちは「天皇への忠誠心」というよりは、兄弟や親戚同士の領地争い(土地の奪い合い)を有利に進めるため、「俺は北朝の味方!」「じゃあ俺は南朝だ!」と都合よく両陣営を利用しました。個人的な欲望が国の分裂と結びついたため、戦争は誰にも止められない泥沼の状態へと陥っていったのです。
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身内同士の殺し合い「観応の擾乱」

さらに事態を複雑にしたのが、幕府の内部崩壊でした。尊氏の片腕だった弟の足利直義と、有能な執事の高師直(こうのもろなお)が激しく対立し、幕府を真っ二つに割る観応の擾乱(かんのうのじょうらん)という巨大な内戦が勃発します。昨日の敵が今日の味方になるような裏切りが横行し、足利一族が北朝や南朝に寝返りを繰り返すなど、戦況はさらにカオスな状態となり、人々の生活は長く苦しい戦乱に蹂躙され続けました。
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56年ぶりの平和「南北朝合一」

終わりの見えない動乱に終止符が打たれたのは、戦いが始まってから実に56年後の1392年のことでした。室町幕府の第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の圧倒的な政治力と軍事力を前に、ついに南朝の天皇が京都へ戻り、三種の神器を北朝に譲り渡す形で南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が成立しました。半世紀以上にわたって日本列島を血に染めた大内戦が終わり、室町幕府が全盛期を迎える歴史の転換点となったのです。
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