1178年(治承2年)、平安京(現在の京都市)の七条東洞院付近から出火し、強風に煽られて広大な人口密集地帯を焼き尽くした大火事です(治承の大火)。前年の1177年に京都の3分の1を焼いた「安元の大火(太郎焼亡)」に続き、甚大な被害をもたらしたため「次郎焼亡」とも呼ばれました。庶民の生活基盤である下京エリアが壊滅し、人々の間に末法思想や平清盛が率いる平氏政権への強い不満と社会不安を広げました。のちの治承・寿永の乱へと繋がる、歴史の決定的な分岐点への足音となる災害です。
平安時代末期の京都は、まるで呪われているかのように巨大な災害に立て続けに見舞われました。1177年、京都の3分の1を焼き尽くした「安元の大火(あんげんのたいか)」が発生し、人々はこれを恐れを込めて「太郎焼亡(たろうしょうぼう)」と呼びました。しかし、京都の人々の悪夢はこれで終わりませんでした。その大火からわずか1年後、再び京都の町を業火が襲ったのです。これが「次郎焼亡(じろうしょうぼう)」とも呼ばれる1178年の「治承の大火(じしょうのたいか)」です。
1178年(治承2年)3月24日、まだ春の寒さが残る深夜から未明にかけて、京都の七条東洞院(現在の京都市下京区、東本願寺の南東あたり)付近から突如として火の手が上がりました。当時は木造の家が密集して建てられており、火を使う台所や照明の不始末などが原因で、ちょっとしたボヤがすぐに大火事へと発展しやすい環境でした。最初は小さな火元でしたが、この日は不運なことに春の強い風が吹き荒れており、火は瞬く間に周囲の家々へと燃え移っていきました。
この日、京都には東から西へと向かって猛烈な突風(東風)が吹き荒れていました。七条東洞院で発生した火は、この強風に煽られて巨大な炎の壁となり、西の方向へと猛スピードで広がっていきました。当時の消防設備は現代のような消防車やポンプがあるわけではなく、水桶で水をかけたり、火が燃え移らないように周りの家を壊したりするくらいしか防ぐ手段がありません。強風に乗って飛び火する炎の勢いを前に、人々はただ逃げ惑うことしかできませんでした。
炎は七条通りに沿って西へ西へと燃え広がり、京都のメインストリートである「朱雀大路(すざくおおじ)」までの広大なエリアを完全に焼き尽くしました。この地域は「下京(しもぎょう)」と呼ばれ、多くの庶民や商人、職人たちがひしめき合って暮らす人口密集地帯でした。前年の「安元の大火(太郎焼亡)」が主に貴族の屋敷や天皇の御所がある北側のエリアを焼いたのに対し、この「治承の大火」は庶民の生活の基盤となるエリアに壊滅的な打撃を与えたのです。
深夜の突然の大火事に、寝ていた人々はパニックに陥りました。燃え盛る家屋から着の身着のまま逃げ出し、少しでも安全な場所へ向かって大混乱の中で逃げ惑います。しかし、強風によって火の粉が雨のように降り注ぎ、逃げ遅れたり、煙に巻かれたりして多くの命が失われました。大切な家族や家、そして生活のために必要な財産や仕事の道具など、すべてがたった一晩のうちに灰となり、生き残った人々も深い絶望の淵に突き落とされました。
この大火事が起きたのは、平清盛(たいらのきよもり)を中心とする平氏政権が栄華を極めていた時代です。当時の人々は、大火事や地震などの自然災害が続くと「政治が乱れているから神仏が怒っているのだ」と考えました。「平氏が権力を独占して横暴な振る舞いをしているから、このような災いが次々と起こるのだ」。相次ぐ火災は、人々の間に平氏政権に対する強い不満と社会への不信感を募らせる大きな原因となっていきました。
相次ぐ大火に加えて、飢饉や竜巻なども発生し、平安時代末期の京都はまさに地獄のような光景でした。人々は「仏教の教えが廃れて世の中が終わる」という「末法思想(まっぽうしそう)」を強く信じるようになります。のちに鴨長明が書いた名作『方丈記(ほうじょうき)』にも、この時代の相次ぐ災害と、立派な家を建てても一瞬で灰になってしまうという人間の営みの虚しさ(無常観)が深く描かれています。治承の大火も、人々の心に暗い影を落とす大きな出来事でした。
家を失った何万人もの被災者たちは、焼け出された荒野で雨風をしのぎ、その日の食べ物にも困る過酷な生活を強いられました。朝廷や平氏政権も復興に向けた対策を行おうとしますが、前年の大火のダメージもまだ回復しておらず、国家の財政も厳しい状況でした。治安も急速に悪化し、焼け跡で盗みや強盗を働く者も現れるなど、京都の町が元の活気を取り戻すまでには途方もない時間と苦労が必要でした。
太郎焼亡、次郎焼亡と続いた大火の恐怖も冷めやらぬ中、京都にはさらに不吉な出来事が降りかかります。1180年には、京都の町を巨大な竜巻が襲う「治承の辻風(じしょうのつじかぜ)」が発生し、多くの家屋が空高く巻き上げられました。大地が揺れ、火が燃え、風が吹き荒れる異常事態の連続は、まるでこれから日本全体を巻き込む巨大な戦乱が始まることを予言しているかのようでした。社会の不安はすでに限界点に達していました。
治承の大火は、単なる自然災害ではなく、平氏政権の時代の終わりを告げる不吉な前兆でした。この翌年の1179年、平清盛はついに後白河法皇を幽閉するクーデターを起こし、さらにその翌年の1180年には、源頼政と以仁王の挙兵、そして源頼朝の挙兵へと歴史は一気に加速していきます。人々の不満と不安を限界まで高めたこの大火は、平安時代の貴族社会を終わらせ、武士の時代へと向かう治承・寿永の乱(源平合戦)という歴史の決定的な分岐点への足音だったのです。