壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした最大のヒーロー・源義経。しかし、兄の源頼朝の許可なく朝廷から役職をもらったり、勝手な行動をしたことで兄弟の仲は最悪に。命を狙われた義経は、かつて自分を育ててくれた東北地方の巨大勢力を頼って逃亡します。これが、東北を巻き込む大戦争のキッカケとなりました。
義経が逃げ込んだのは、現在の岩手県・平泉を中心に東北地方を支配していた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。豊富な金(ゴールド)と馬の産地を独占し、京都にも負けない華やかな中尊寺などの文化を築き上げていた超お金持ちの一族でした。鎌倉の頼朝にとっても、この強大な軍事力と経済力は最大の脅威だったのです。
奥州藤原氏のトップである3代目・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、義経を我が子のように可愛がっていました。頼朝から「義経を引き渡せ!」と強烈な脅しを受けても、秀衡は「絶対に渡さない」と義経を守り抜きます。しかし、この英雄をかくまったことが、後に奥州藤原氏の運命を大きく狂わせることになります。
秀衡が病気で亡くなると、跡を継いだ4代目・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の度重なるプレッシャーに耐えきれなくなります。「義経を殺さなければ、お前たちを滅ぼす!」と脅された泰衡は、ついに父の遺言を破って義経の館を襲撃。1189年、追い詰められた義経は衣川の戦いで無念の自害(切腹)を遂げました。
「これで頼朝も許してくれるだろう」と安心した泰衡。しかし、頼朝の本当の狙いは義経の命ではなく「東北地方の豊かな領地を奪い、日本を完全に支配すること」でした。頼朝は「私に刃向かった義経を長年かくまっていた罪は重い!」と難癖をつけ、天皇からの正式な許可(追討令)も待たずに大軍を東北へ向けて出撃させたのです。
1189年7月、頼朝は自ら総大将となり、約28万とも言われる圧倒的な大軍で奥州へ進軍します(奥州合戦)。鎌倉の武士たちは「ここで活躍すれば、豊かな東北の土地がご褒美でもらえるぞ!」と気合十分。東海道、東山道、北陸道の3つのルートから、奥州藤原氏を完全に包囲するように攻め上がっていきました。
迎え撃つ奥州藤原軍は、福島県の阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)で巨大な防衛線を築いて必死に抵抗します。しかし、激しい戦いの末に鎌倉軍の猛攻の前に突破され、奥州軍は総崩れとなってしまいます。頼朝の軍勢は勢いに乗り、奥州藤原氏の本拠地である平泉へと怒涛の勢いで迫っていきました。
敵の大軍が迫る中、泰衡は自ら平泉の町に火を放ち、北海道方面へ逃亡しました。かつて黄金に輝き、栄華を極めた美しい平泉の町はあっけなく灰になってしまいます。その後、逃げていた泰衡も味方の裏切りにあって殺され、約100年にわたって東北地方に君臨した奥州藤原氏は、ここに完全に滅亡したのです。
奥州合戦の勝利により、手に入れた東北の広大な土地を、頼朝は戦いで活躍した関東の御家人(家臣)たちにたっぷりとご褒美として分け与えました。これにより「将軍のために戦えば、土地がもらえる」という御恩と奉公のシステムがより強固なものとなり、全国の武士たちは頼朝に絶対の忠誠を誓うようになりました。
平氏を倒し、義経を排除し、最後に奥州藤原氏を滅ぼしたこの奥州合戦によって、頼朝による日本全国の軍事支配が事実上完成しました。京都の朝廷も頼朝の実力を完全に認めざるを得なくなり、1192年の「征夷大将軍」任命へと繋がっていきます。まさに鎌倉幕府という武士の世の基盤を完成させた、総仕上げの歴史的事件だったのです。