1230年(寛喜2年)、日本列島は信じられない異常気象に見舞われました。梅雨の時期になっても冷たい雨が降りやまず、夏になっても全く気温が上がらなかったのです。公家である藤原定家の日記『明月記』には、「夏なのに綿入れの冬服を着ている」と記録されています。さらに驚くべきことに、旧暦の6月や7月(現在の7月〜8月)という本来なら真夏である時期に、京都や関東で大雪が降るという前代未聞の異常事態が起きました。
この夏に雪が降るほどの極端な冷夏と長雨、そして暴風雨によって、全国の農作物は壊滅的な被害を受けました。秋になっても稲は全く実らず、収穫量はほぼゼロになってしまったのです。米を主食としていた当時の人々にとって、これは「確実な死」を意味しました。備蓄していた食料もあっという間に底をつき、日本全国を地獄のような大飢饉が襲うことになります。これが鎌倉時代で最大の被害を出した寛喜の飢饉(かんきのききん)の始まりでした。
食べるものがなくなった人々は、草の根や木の皮、さらには牛や馬の肉まで食べて飢えをしのぎましたが、それもすぐに無くなりました。翌1231年(寛喜3年)になると状況はさらに悪化し、栄養失調で餓死する人が続出します。京都の町中や鴨川の河原には、やせ細った死体が山のように積み重なり、その異臭が都に立ち込めたといいます。あまりの死者の多さに、遺体を埋葬して処理することすら誰にもできないという、この世の終わりのような惨状でした。
飢えに苦しむ人々は、自分が生き残るために、そして何よりも自分の大切な子供を餓死させないために、涙を飲んで苦渋の決断を下します。それは、自分自身や妻子を裕福な者に「奴隷」として売り飛ばすことでした。これを人身売買と呼びます。当時の法律では人を売買することは厳しく禁止されていましたが、そうしなければ家族全員が確実に餓死してしまうという、極限の悲惨な状況に追い詰められていたのです。命を繋ぐための最後の悲しい手段でした。
この未曾有の大災害に直面し、鎌倉幕府の実質的なトップである第3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)は深く苦悩します。彼は自らの食事を減らして質素な生活を送り、幕府の米蔵を開いて人々に食料を分け与えました。さらに泰時は、生きるためにやむを得ず家族を売った人々を罰するどころか、「この飢饉の期間中に限り、人身売買を罪に問わない」という、異例中の異例である法律の一時的な緩和を行いました。庶民を救うための緊急措置でした。
幕府がいくら対策を打っても、全国的な食料不足を完全に補うことはできませんでした。飢えで理性を失った人々の中には、生きるために徒党を組んで盗賊になり、裕福な家や米蔵を襲撃する者も現れました。各地で略奪や暴動が多発し、鎌倉時代初期の社会の治安はどん底まで悪化します。武士たちの間でも、なけなしの土地や食料を巡るトラブルや裁判が急増し、幕府の対応は完全にパンクしてしまいました。
飢饉の被害を受けたのは、農民や庶民だけではありませんでした。幕府を支える存在である鎌倉の御家人(武士)たちも、自分の領地から税金(お米)が全く入ってこなくなり、たちまち生活が苦しくなりました。貧困に喘ぐ武士たちは、先祖から受け継いだ大切な領地を他人に売り払うようになります。武士の生活基盤である土地が失われることは、幕府の屋台骨が揺らぐことを意味し、国家全体が崩壊の危機に直面しました。
頻発する土地トラブルや盗賊の横行に対し、これまでの鎌倉幕府には「明確な法律」がありませんでした。頼朝の時代からの「道理(武士の常識)」だけで裁判を行っていましたが、社会が混乱の極みにある中では、もはや裁判官のさじ加減だけでは人々を納得させられなかったのです。北条泰時は、「誰もが納得できる、武士のための公平で分かりやすい法律」を急いで作らなければ、幕府が崩壊してしまうと痛感します。
飢饉がようやく収まり始めた翌年の1232年、北条泰時は日本の歴史を大きく変える決断を下します。それが、日本で最初の武家法である御成敗式目(ごせいばいしきもく:貞永式目)の制定です。51か条からなるこの画期的な法律は、飢饉による深刻な社会不安と頻発する土地の裁判に対処し、武士の財産と秩序を守り抜くために作られました。未曾有の自然災害が、武士の社会を法律でまとめるという歴史の決定的な分岐点となったのです。
寛喜の飢饉は日本全国で全人口の約3分の1の人命を奪ったとも言われる、言葉を失うほど悲惨な災害でした。しかし、この絶望的な混乱があったからこそ、幕府は社会を立て直すために「撫民(ぶみん:庶民を思いやる政治)」の精神を学び、御成敗式目という素晴らしい法律を生み出すことができました。歴史上の大災害は、人々に深い悲しみをもたらすと同時に、国や社会の仕組みを一段階上へとアップデートさせる、大きな変革の原動力にもなるのです。