天下分け目の関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康が江戸幕府を開いた頃。東北の雄・伊達政宗(だてまさむね)は、まだ大きな野望を抱いていました。「スペイン(エスパーニャ)と直接貿易をして、仙台藩を豊かにしてやる!」と考えた政宗は、ヨーロッパへ巨大な船で外交使節団を送るという、とんでもないビッグプロジェクトを計画しました。これが、日本史に残る壮大な挑戦、慶長遣欧使節の始まりです。
この超難関ミッションのリーダー(副使)に抜擢されたのが、政宗の信頼が厚い家臣・支倉常長(はせくらつねなが)と、宣教師のルイス・ソテロでした。1613年、彼らは政宗が作らせた巨大な洋式帆船「サン・フアン・バウティスタ号」に乗り込み、太平洋を横断してメキシコ(当時のヌエバ・エスパーニャ)へ渡ります。さらにそこから大西洋を越えてヨーロッパを目指すという、当時としてはまさに命がけの奇跡の大航海でした。
長い長い航海の末、ついにスペインに到着した使節団は、国王フェリペ3世と面会します。常長はキリスト教の洗礼を受け、本場のヨーロッパ人たちから熱烈な大歓迎を受けました。さらに彼らはイタリアのローマへ向かい、ついにキリスト教のトップであるローマ教皇・パウロ5世との謁見(面会)という大偉業を成し遂げます。東の果ての国からやってきたサムライの姿に、当時のヨーロッパ中が驚きと熱狂に包まれました。
ローマ教皇にまで会えた常長たちですが、肝心の通商(貿易)交渉はうまくいきませんでした。なぜなら、彼らがヨーロッパで頑張っている間に、日本の江戸幕府がキリスト教を厳しく禁止する「禁教令(きんきょうれい)」を出し、国内で信者たちを迫害し始めていたからです。この情報がヨーロッパに伝わると、「キリスト教を弾圧するような国と貿易はできない!」と態度を硬化させられ、常長たちの交渉は悲しくも完全に決裂してしまいました。
目的を果たせなかった支倉常長は、出発からなんと7年後の1620年、ようやく日本(仙台)へ帰国しました。しかし、すでに日本はキリスト教を厳しく取り締まる時代になっており、常長の帰国を喜んでくれる人はほとんどいませんでした。常長は失意の中でひっそりとこの世を去り、慶長遣欧使節の記録も長らく忘れ去られてしまいます。しかし彼らが持ち帰った品々は、現在「国宝」として大切に保存され、その壮大な挑戦を今に伝えています。