寛政の改革の直前、幕府では田沼意次(たぬまおきつぐ)が商業を重視して経済を発展させていましたが、同時に役人へのワイロ(賄賂)が横行していました。そこへ不運にも浅間山の大噴火や異常気象が重なり、全国で大勢の人が餓死する「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」が発生。江戸の町では米屋が襲われる「打ちこわし」が連発し、田沼は責任をとってクビになりました。幕府は再び大ピンチに陥ります。
大混乱の幕府を救うため、新しい老中(幕府の政治のトップ)に大抜擢されたのが松平定信(まつだいらさだのぶ)です。彼はあの「暴れん坊将軍」徳川吉宗の孫にあたり、白河藩(福島県)の殿様として飢饉から領民を見事に救い出した実績がありました。「おじいちゃんの享保の改革をもう一度!」と気合十分の定信は、田沼時代のお金もうけ主義を全否定し、超マジメで道徳的な政治をスタートさせます。
定信がまず命じたのが、極端な「質素倹約(ぜいたく禁止)」です。「派手な着物は着るな!」「お菓子もぜいたくだ!」「床屋に行く回数を減らせ!」と、武士から庶民の生活の細部まで厳しく口を出しました。さらに、風紀を乱すとして、エッチな本や面白い小説(洒落本や黄表紙など)を描いた作家や出版屋(山東京伝や蔦屋重三郎)を厳しく処罰。江戸の町から娯楽が消え、人々は息苦しい生活を強いられます。
飢饉でお米が不足していたため、定信は「農業こそ国の基本だ!」と考えました。出稼ぎのために農村から江戸の町に流れ込んできた農民たちに対し、「旅費をあげるから、故郷の村へ帰って農業をやりなさい」と説得しました。これを旧里帰農令(きゅうりきのうれい)と呼びます。とにかく農村を復活させて、幕府の収入源であるお米の生産量を元に戻そうと必死だったのです。
天明の大飢饉の反省から、定信は全国の大名に「万が一の飢饉に備えて、お米を倉に貯金しておけ!」と命じました。これが囲米(かこいまい)です。また、江戸の町でも町内会ごとに節約をさせ、浮いたお金の7割をいざという時のために貯金させる「七分積金(しちぶつみきん)」という制度を作りました。とても地味ですが、人々の命を救うための非常にマジメで優れた福祉政策でした。
当時、幕府に仕える身分の低い武士(旗本や御家人)は、札差(ふださし)と呼ばれる商人からお金を借りて借金まみれになっていました。武士を救うため、定信は「古い借金は全額チャラ(無効)!新しい借金も利子を安くしろ!」という超強引な法律を出します。これを棄捐令(きえんれい)と呼びます。一時的に武士は助かりましたが、怒った商人がお金を貸さなくなり、結局はもっと困ることになります。
まじめな定信は「世の中が乱れているのは、みんながバラバラの学問を学んでいるからだ」と考えました。そこで、幕府公認の学校(湯島聖堂)では、上下関係や道徳を一番厳しく教える「朱子学(しゅしがく)」以外の学問を教えることを禁止しました。これを寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)と呼びます。思想を統一して、武士たちに幕府への絶対的な忠誠心を植え付けようとしたのです。
江戸の町には、仕事を持たない浮浪者や、軽い罪を犯した人が溢れ、治安が悪化していました。そこで定信は、石川島(現在の東京都中央区)に人足寄場(にんそくよせば)という施設を作りました。彼らをここに集め、大工仕事や紙すきなどの職業訓練をさせ、マジメに働いた者にはお金を与えて社会復帰を応援したのです。これは現代の刑務所や職業訓練校に繋がる、とても画期的なアイデアでした。
順調に見えた改革ですが、大きなトラブルが起きます。当時の光格天皇が、自分の父親(天皇になれなかった人物)に「太上天皇」という名誉ある称号を贈ろうとしました。しかしルールを重んじる定信は「幕府の許可なく特別な称号をあげるのはダメです!」と強硬に反対し、朝廷の怒りを買いました(尊号一件)。この事件で、定信は天皇だけでなく、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)との関係も悪化させてしまいます。
「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という有名な落首(風刺の歌)があります。「定信の政治は水が綺麗すぎる(厳しすぎる)ため、魚(庶民)は息が詰まって生きられない。ワイロはあったが昔の田沼時代が恋しい」という意味です。あまりの息苦しさに武士からも庶民からも嫌われ、将軍との対立も深まった定信は、わずか6年で老中をクビになり、改革はあっけなく幕を閉じました。