1585年、豊臣秀吉は朝廷の最高位である関白(かんぱく)に就任しました。これにより秀吉は、単なる力の強い戦国大名から、天皇の代理人として日本全国を統治する「天下人」という絶対的な権威を手に入れます。武力だけでなく、神聖な天皇の力を背景に持つことで、他の大名たちを見下ろす圧倒的な立場となりました。もはや戦いで領地を奪い合う時代は終わり、自分が法律となって国を治めるという強い自覚を持ったのです。
天下人となった秀吉が、全国の大名に突きつけた画期的なルールが、歴史のテストに必ず出る惣無事令(そうぶじれい)です。これは「大名同士が勝手に軍隊を動かして領土を奪い合うこと(私戦)を絶対に禁じ、平和(無事)を保て」という命令でした。もし領土のトラブルがあれば、当事者同士で戦うのではなく、秀吉の裁判(裁定)に従って解決しなければなりません。戦国時代の常識であった「力こそ正義」を根本から覆す、強烈な法律の誕生です。
その頃、遠く離れた九州地方では激しい戦国乱世が続いていました。薩摩国(現在の鹿児島県)を本拠地とする島津氏が、当主の島津義久(しまづよしひさ)と優秀な弟たちに率いられて圧倒的な強さを誇っていました。島津軍は「釣り野伏せ」などの得意戦法で龍造寺氏などのライバルを次々と打ち破り、豊後国(大分県)の大名・大友氏を絶体絶命の窮地に追い詰めます。彼らの快進撃は誰にも止められず、島津氏による九州の完全統一は目前に迫っていました。
島津軍の激しい猛攻により、ついに本拠地まで攻め込まれて滅亡の危機に瀕した大友宗麟(おおともそうりん)は、戦国大名としてのプライドを捨てて大きな決断を下します。彼ははるばる大坂城の秀吉のもとへ駆け込み、「どうか島津の攻撃から私たちを助けてください」と涙ながらに救援を求めたのです。秀吉にとって、これは九州の争いに「関白」という立場で介入し、彼らを自分の支配下に組み込むための絶好の口実となりました。秀吉の鋭い視線が九州に向けられます。
1585年10月、秀吉は大友氏からのSOSに応える形で、九州の諸大名に対して惣無事令を発布しました。特に、勢いに乗って他国の領土を奪い続けている当主・島津義久に対しては、「ただちに全ての戦闘を停止し、大友領から兵を引き上げよ。もしこの命令に背けば、天皇の命令に背いた逆賊として容赦なく討伐する」という厳しい警告の書状を送りつけました。これは九州の運命を決める、関白からの最後通牒でした。
しかし、名門の血筋であり九州の覇者としての強い誇りを持つ島津氏は、農民から成り上がった秀吉からの命令を鼻で笑い、これを完全に無視してしまいます。「遠く離れた大坂の成り上がりが、我々が血を流して勝ち取った九州の争いに口出しできるはずがない」。島津氏は秀吉の真の軍事力と権威を過小評価し、そのまま武力による九州統一を強行しようとしました。この島津氏の致命的な油断が、豊臣の巨大な軍隊を呼び込むことになります。
島津軍は惣無事令を完全に無視して軍事行動を継続し、さらに大友氏の領土へと深く侵攻していきました。これは単なる領土争いの延長ではなく、天皇の代理人である関白・秀吉の顔に泥を塗る、国家の法律に対する許されざる「反逆行為」となりました。秀吉が打ち出した「戦いをやめて裁判で解決する」という新しい平和のルールを根底から否定する島津氏の態度は、秀吉にとって自らの権威にかけて絶対に潰さなければならないものだったのです。
「天下の法を破る逆賊は、断固として成敗する」。秀吉は惣無事令への違反を大義名分として、四国や西日本の大名たちを総動員し、島津氏を討伐するための九州平定(九州征伐)に向けた大軍勢の派遣を決定しました。法律を破った者には、国家の巨大な軍事力をもって強烈な制裁を加える。秀吉は、自分の命令がいかに絶対的なものであるかを日本中の大名たちに思い知らせるため、かつてない規模の軍隊を九州へと送り込む準備を始めました。
翌年からの本格的な戦いで、ついに秀吉本人が率いる総勢20万人とも言われる圧倒的な大軍勢が九州へ上陸しました。計算し尽くされた兵糧(食料)の補給と桁違いの数の暴力の前に、無敵を誇った島津の武士たちもなすすべなく各地で敗走します。本拠地まで追い詰められた当主の島津義久は、ついに自ら髪を剃って丸坊主(出家)になり、秀吉の前にひれ伏して全面降伏しました。九州の覇者が、天下の法律と巨大な武力に完全に屈した瞬間でした。
九州での惣無事令の適用と武力討伐の成功は、秀吉の権力と法律が日本の隅々にまで及ぶことを強く証明しました。この後、秀吉は関東や奥羽(東北地方)の大名たちにも同じように惣無事令を発布し、違反した北条氏を小田原攻めで滅ぼして天下統一を完成させます。大名同士の私戦を禁じたこの法令は、武士の行動原理を「武力による土地の奪い合い」から「法律と権力者による統制」へと根本から作り変える、歴史の決定的な分岐点となったのです。