江戸時代の中頃、日本は長く平和な時代が続いていましたが、京都の朝廷では静かなる地殻変動が起きようとしていました。当時の天皇は、まだ10代の若き桃園天皇(ももぞのてんのう)です。幕府の力が圧倒的に強く、天皇や公家(貴族)たちは政治の実権を持たず、学問や儀式だけを行う窮屈な生活を強いられていました。「本来の日本のトップは天皇であるべきではないか」。そんな抑圧された朝廷の空気に、一人の学者が火をつけます。
その学者の名は、竹内式部(たけのうちしきぶ)と言いました。彼は新潟の医者の家に生まれましたが、京都に出てきて神道や儒学を深く学びました。彼が教えたのは、「天皇こそが絶対的な存在であり、神として敬うべきだ」という尊王論(そんのうろん)を強く打ち出した学問です。式部は非常に話がうまく、彼の熱い講義は、幕府に押さえつけられて鬱屈とした日々を送っていた若い公家たちの心を、たちまち強く惹きつけていきました。
竹内式部の塾には、徳大寺公城(とくだいじきんき)ら、朝廷の未来を担うエリート公家たちがこぞって入門しました。彼らは式部の教えに熱狂し、「我々が天皇をしっかりとお支えし、かつてのような朝廷の強い権力を取り戻さなければならない!」と固く決意します。平和な時代の裏側で、幕府の権力を否定し、天皇中心の政治を目指そうとする危険な思想が、京都の宮中という最も神聖な場所で静かに、そして確実に広がり始めていったのです。
式部に学んだ若い公家たちは、なんと若き桃園天皇に直接、日本の歴史や神道の教えを進講(レクチャー)するようになりました。天皇自身も彼らの熱い言葉に深く感化され、「自分こそが日本の真の君主として立つべきだ」という強い自覚を持つようになります。天皇と若い公家たちが一体となって朝廷の権威回復を目指すという、江戸幕府の存在を根本から揺るがしかねない、非常に危険な政治運動へと発展しつつありました。
さらに驚くべきことに、竹内式部は「天皇をお守りするためには、公家も武芸を身につけるべきだ」と主張しました。それまで和歌を詠んだり蹴鞠(けまり)をして優雅に暮らしていた公家たちが、なんと刀を振り回し、弓や馬の訓練を始めたのです。中には軍学(戦術)を学ぶ者まで現れました。京都の町で貴族たちが汗を流して武術の訓練に励むという異様な光景は、周囲の人々を驚かせ、同時に深刻な警戒感を抱かせることになりました。
この異常事態に最も強い危機感を抱いたのは、幕府ではなく、実は朝廷内部の古い権力者たちでした。関白などの高い地位にいる大物公家(摂家)たちは、「若い者たちが天皇をそそのかして、幕府に反抗しようとしている。もし幕府を怒らせたら、朝廷そのものが潰されてしまう!」とパニックに陥りました。彼らは既得権益と朝廷の安全を守るため、自分たちの教え子や後輩であるはずの若い公家たちを排除するという、冷酷な決断を下します。
1758年、関白たちは京都の治安を守る幕府の役所である京都所司代(きょうとしょしだい)に、「竹内式部という怪しい学者が、公家たちをたぶらかしている」と密告しました。朝廷内部からの通報を受けた幕府はすぐさま行動を起こします。幕府にとって、天皇に政治的な力を持たせようとする尊王論は、絶対に許してはならない最も危険な思想でした。幕府の厳しい追及のメスが、式部と若い公家たちに容赦なく向けられます。
密告を受けた幕府は、ついに竹内式部を逮捕し、厳しい取り調べを行いました。これが歴史のテストで頻出する、江戸幕府による初めての思想弾圧事件である宝暦事件(ほうれきじけん)の勃発です。同時に、式部の教えを受けていた徳大寺公城ら多くの若い公家たちも、朝廷の役職をクビにされたり、謹慎処分を受けたりしました。朝廷の権力を取り戻そうとした若き天皇と公家たちの夢は、幕府の強大な権力の前にもろくも崩れ去ったのです。
厳しい取り調べの結果、竹内式部は「身分の低い学者のくせに、公家たちに怪しい学問を教えて朝廷を混乱させた」という罪で、京都からの永久追放(重追放)という重い判決を受けました。式部は京都を離れることを余儀なくされましたが、彼自身は処刑されることはなく、その後も地方でひっそりと学問を教え続けました。しかし、この事件をきっかけに、幕府は「天皇を政治的に利用しようとする動き」に対して、極めて神経を尖らせるようになります。
宝暦事件は、少数の公家たちによる局地的な事件で終わりました。しかし、竹内式部が蒔いた「天皇を尊ぶ」という思想の種は、決して枯れることはありませんでした。この事件の約10年後には、式部とも交流があった山県大弐が処刑される明和事件が起こります。弾圧されればされるほど、地下に潜った思想は危険な熱を帯び、やがて幕末の巨大な尊王攘夷(そんのうじょうい)運動へと繋がる端緒を開いた、歴史の重要な分岐点となりました。