1587年、島津氏を降伏させて九州を平定した豊臣秀吉は、ついに日本の西半分を完全に支配下に置きました。残るは東日本、すなわち関東地方と奥羽(東北)地方のみです。しかし、関東には巨大な勢力を持つ北条氏が、東北には「独眼竜」の異名をとる若き天才・伊達政宗(だてまさむね)らが激しい領土争いを繰り広げていました。秀吉は彼らを武力でいきなり攻め滅ぼすのではなく、まずは政治的な罠を仕掛けることにします。
秀吉は単なる力持ちの武将ではなく、天皇を補佐する朝廷の最高職「関白(かんぱく)」という絶対的な地位を手に入れていました。「関白である自分の命令は、すなわち天皇の命令である」。秀吉はこの神聖な権威を最大限に利用し、東日本の大名たちに対して「これ以上、お互いに勝手な戦争をしてはならない」という停戦命令を出しました。これが歴史のテストでも頻出の惣無事令(そうぶじれい)です。
惣無事令のルールは非常にシンプルですが、恐ろしい罠が隠されていました。「領土のトラブルは武力ではなく、関白である秀吉の裁判で決める」というものです。もしこの命令を無視して勝手に敵の領地を奪えば、その大名は「天皇の命令に背いた朝敵(国賊)」とみなされ、日本中の大名を敵に回して討伐されることになります。つまり、秀吉は戦わずして全国の裁判権(=絶対的な支配権)を握ろうとしたのです。
この命令に最も不満を持ったのが、関東に広大な領地を持つ北条氏(後北条氏)です。当主の北条氏直と、その父である北条氏政(ほうじょううじまさ)は、「我々は5代にわたって関東を自力で切り開いてきたのだ。成り上がりの秀吉の命令など聞けるか!」と強いプライドを持っていました。彼らは小田原城という難攻不落の要塞を持っており、秀吉の命令を軽視して、その後も周囲の領国へと軍事的な圧力をかけ続けたのです。
一方、奥羽(東北)地方でも、伊達政宗が周囲の大名を次々と倒して領地を拡大している最中でした。政宗のもとにも秀吉から「ただちに戦争をやめよ」という惣無事令が届きます。政宗は「あと少しで東北を統一できるのに!」と激しく葛藤しました。秀吉の恐るべき力は噂で聞いていましたが、目の前の野望を捨てることもできません。政宗は秀吉の命令を無視する形で、ギリギリまで戦いを続けてしまいました。
秀吉は、東国の大名たちがすぐに命令に従わないことを計算に入れていました。彼らが惣無事令を破るのをじっと待ちながら、徳川家康などの有力な大名たちを次々と自分の味方に引き入れ、外堀を埋めていったのです。家康はかつて北条氏と同盟を結んでいましたが、秀吉の圧倒的な力に服従し、北条氏に対して「秀吉様に逆らわずに挨拶に来るべきだ」と忠告の手紙を送るなど、東国の情勢は緊迫の度合いを高めていきました。
そして1589年、ついに北条氏が致命的なミスを犯します。真田氏との領土トラブルの最中、北条の家臣が独断で真田領の「名胡桃城(なぐるみじょう)」を武力で奪い取ってしまったのです。真田氏はすでに秀吉に臣従していました。これを知った秀吉は「ついに惣無事令を破ったな!関白の命令を無視する逆賊め!」と大義名分を得て、全国の大名に対して北条討伐の号令をかけました。秀吉の罠が完全に作動した瞬間です。
この名胡桃城の事件を直接の引き金として、翌1590年に小田原征伐(おだわらせいばつ)が勃発します。秀吉は約21万人という日本史上最大規模の大軍勢を関東へ送り込みました。惣無事令という「法律」を破った北条氏を討伐するという名目があったため、日本中の大名が秀吉の命令に従って集結したのです。難攻不落を誇った北条氏も、この圧倒的な物量と大義名分の前にはなす術がなく、ついに滅亡へと追い込まれました。
小田原征伐の最中、命令を無視して戦い続けていた伊達政宗も「このままでは伊達家も北条と同じ運命になる」と悟りました。政宗は死を覚悟する白装束(死装束)を身にまとい、秀吉の陣へと出向いて命がけの謝罪を行いました。秀吉は政宗の遅参を叱りつつも、その器量を認めて降伏を受け入れます。その後、秀吉は東北地方の大名の領地を再配置する「奥州仕置」を行い、東日本の平定を完了させました。
1587年の惣無事令は、ただの停戦命令ではありませんでした。武士たちが力で土地を奪い合う「戦国時代のルール」を強制的に終了させ、「法と裁判」によって国を治める新しいルールを定めた宣言だったのです。この方針転換は、のちの江戸幕府が平和な社会を築き上げるための重要な土台となりました。秀吉が武力だけでなく、高度な政治力と法律を駆使して天下統一を完成させた、歴史の決定的な分岐点なのです。