1590年に日本全国の統一を成し遂げた豊臣秀吉の目は、すでに海の向こうへと向けられていました。彼の最終目標は、当時の超大国である明(現在の中国)を征服し、東アジア全体を支配するという壮大なものでした。これを「唐入り(からいり)」と呼びます。秀吉は、国内の平和を維持しつつ、手柄を求める武士たちに新たな領地(恩賞)を与えるためにも、海外への領土拡大が必要だと考えていたのです。
海外遠征の拠点として、秀吉は九州の北端(現在の佐賀県)に「肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)」という巨大な城を築きました。わずか数ヶ月で完成したこの城の周辺には、全国から集められた大名たちの陣屋が立ち並び、人口は一気に数十万人に膨れ上がりました。日本の中心が一時的にこの九州の辺境へと移り、大軍を海の向こうへ送り出すための未曾有の軍事拠点として機能し始めたのです。
明を攻めるにあたり、秀吉はまず朝鮮(当時の李氏朝鮮)に対して「明に攻め入るための道を貸し、道案内をせよ」と要求しました。これを「假途入明(かとじゅうめい)」と言います。しかし、明と深いつながり(朝貢関係)を持っていた朝鮮にとって、この要求を受け入れることは裏切りを意味します。朝鮮がこれをきっぱりと拒否したため、秀吉はまず朝鮮半島を武力で制圧することを決断しました。
1592年(文禄元年)4月、小西行長や加藤清正(かとうきよまさ)らを先陣とする約16万の日本軍が、ついに玄界灘を渡って朝鮮半島の釜山(プサン)に上陸しました。これが歴史のテストに出る文禄の役(1回目の朝鮮出兵)の始まりです。最新の武器である鉄砲(火縄銃)を大量に装備し、長年の戦国時代で実戦経験を積んだ日本の大軍勢は、凄まじい勢いで北への進軍を開始しました。
平和な時代が長く続いていた朝鮮軍は、日本の鉄砲隊の威力と組織的な戦術の前に総崩れとなりました。日本軍は上陸からわずか約20日という驚異的なスピードで、首都である漢城(現在のソウル)を陥落させます。朝鮮の国王は首都を捨てて北へ逃亡しました。その後も日本軍の快進撃は止まらず、小西行長の部隊は平壌(ピョンヤン)を占領し、加藤清正の部隊はさらに北上して国境地帯まで迫りました。
陸上では圧倒的な強さを誇った日本軍ですが、海上で思わぬ強敵に直面します。それが李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍です。彼は亀甲船(きっこうせん)という特殊な装甲船を駆使し、日本の水軍を次々と撃破しました。この活躍により、日本軍は海からの食料や武器の補給ルート(兵站)を断たれてしまい、陸上の部隊は深刻な食料不足と物資の欠乏に苦しむことになります。
補給が途絶えた日本軍をさらに苦しめたのが、朝鮮の民衆たちによる激しい抵抗でした。国王の正規軍が敗走する中、各地で「義兵(ぎへい)」と呼ばれるゲリラ部隊が立ち上がりました。地元の農民や僧侶、役人たちが武器を取り、土地の利を活かして日本軍の背後や補給部隊をゲリラ戦法で襲撃したのです。慣れない異国の地で、日本軍は四面楚歌の泥沼の戦いへと引きずり込まれていきました。
朝鮮からの再三の救援要請を受けた大国の明は、ついに大軍を朝鮮半島に派遣することを決定します。1593年、明と朝鮮の連合軍は平壌の日本軍を攻撃し、これに大打撃を与えました。寒さと飢え、そして大国の参戦により、小西行長らの部隊は首都の漢城まで後退せざるを得なくなります。秀吉が描いた「明の征服」という野望は、現実の厳しい壁にぶつかり、早くも計画の根本から崩れ始めていました。
漢城に迫る明の軍勢に対し、小早川隆景ら日本軍は碧蹄館(へきていかん)という場所で奇襲をかけ、明軍に痛手を与えて反撃に成功します。しかし、日本軍にもこれ以上北へ進軍する余力はなく、明軍も日本軍を完全に追い出す力はありませんでした。両軍は決定的な勝利を掴めないまま、兵糧不足と疫病に苦しみ、戦線は完全に膠着状態に陥りました。戦争を続けることは、双方にとって限界に達していたのです。
1593年の夏、戦局の打開が不可能と悟った日本と明の間で休戦交渉が始まりました。日本軍は一旦、朝鮮半島の南岸まで撤退し、文禄の役の戦闘は事実上終結します。しかし、秀吉の無理な要求により交渉は後に決裂し、再び慶長の役(2回目の出兵)という悲劇を引き起こすことになります。大義のないこの無謀な戦争は、参戦した日本の大名たちに莫大な経済的・軍事的負担を強い、豊臣政権が衰退へ向かう歴史の決定的な契機となったのです。