1467年 〜 1573年
1467年の応仁の乱をきっかけに幕府の力が衰え、約100年以上にわたって日本全国の武将たちが領土を奪い合った激動の時代。身分が低くても実力で上の者を倒す下克上(げこくじょう)の風潮が広まり、各地で戦国大名が誕生しました。鉄砲やキリスト教など西洋の文化も伝来し、社会が大きく変化。織田信長や武田信玄など、誰もが知る有名な武将たちが天下統一を目指して激しい戦いを繰り広げた、日本史の中でも特に人気が高く熱い時代です。
1467年
室町幕府・将軍家の相続問題を発端として、有力守護大名である畠山氏と斯波氏の家督争いなどが複雑に絡み合い、東軍と西軍に別れて京都を主戦場として11年間も争った大乱。8代将軍・足利義政と正室・日野富子に子が生まれ、実弟・足利義視との間で後継者争いが発生。これが有力守護大名の権力闘争と結びつき、東軍の総大将・細川勝元、西軍の総大将・山名宗全の2大陣営に分かれて応仁の乱へと発展しました。この戦いをきっかけに室町幕府の権威は完全に失墜し、実力主義の約150年間続く戦国時代が始まったとされています。
1467年
御霊合戦(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
上京の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
東岩倉の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
三宝院の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
相国寺の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1468年
第二次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1468年
西陣の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1468年
第一次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1469年
西岡の戦い(山城国、現:京都府福知山市)
合戦
1469年
第三次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1469年
尚円王クーデター、第二尚氏王統 成立
合戦
琉球国(現:沖縄県)において尚円王がクーデターを起こし、第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)を滅亡させた事件。尚円王は、第二尚氏王統の初代国王(在位:1469年 - 1476年)に即位する。
1470年
大内道頓の乱(安芸国、石見国、長門国、現:中国地方)
合戦
1473年
五十子の戦い(武蔵国、現:埼玉県本庄市)
合戦
1474年
12月19日
足利義政 室町幕府8代・征夷大将軍 退任
官職
1474年
12月19日
足利義尚 室町幕府9代・征夷大将軍 任命
官職
1476年
長尾景春の乱(武蔵国、相模国、下野国、上総国、下総国)
合戦
1477年
江古田・沼袋原の戦い(武蔵国、現:東京都中野区)
合戦
1477年
若江城の戦い(河内国、現:大阪府東大阪市)
合戦
1477年
第三次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1478年
境根原合戦(下総国、現:千葉県柏市)
合戦
1479年
蓮如、山科本願寺 建立
文化
1479年
第一次毛利次郎の乱(因幡国、現:鳥取県)
合戦
1480年
菖蒲沼の戦い(出羽国、現:山形県寒河江市)
合戦
1480年
文明美濃の乱(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1481年
田屋川原の戦い(越中国、現:富山県南砺市)
合戦
1483年
犬田城の戦い(河内国、現:大阪府枚方市)
合戦
1483年
河内十七箇所の戦い(河内国、現:大阪府)
合戦
1483年
第四次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1485年
応仁の乱の舞台となった山城国(現在の京都府南部)で、地元の人々が団結して起こした大規模な反乱。応仁の乱が終わった後も、守護大名の畠山氏は身内争いを続けていました。終わらない戦と重税に怒った地元の武士(国人)や農民たちが立ち上がり、なんと両軍を山城国から追放!その後、彼らは平等寺で集会を開き、約8年間にもわたって独自の自治を行いました。名もなき人々が大名に打ち勝った、戦国時代の「下克上」を象徴する歴史的事件です。
1485年
馬門原の戦い(肥後国、現:熊本県山都町)
合戦
1487年
長享・延徳の乱(近江国、現:滋賀県)
合戦
1487年
第二次毛利次郎の乱(因幡国、現:鳥取県)
合戦
1487年
長享の乱(関東地方)
合戦
1488年
加賀国(現在の石川県)で、一向宗(浄土真宗)の信徒たちが守護大名を倒し、約100年にもわたって自分たちで国を支配した歴史的事件。室町時代後期、僧侶の蓮如の布教によって北陸地方で爆発的に信者を増やした一向宗ですが、加賀の守護大名・富樫政親に弾圧されます。これに激怒した農民や地元の武士(門徒)たちが団結して一揆を起こし、政親を滅ぼしました。その後、彼らは大名がいない「百姓の持ちたる国」を作り上げ、織田信長に平定されるまで長期にわたる強固な自治を実現しました。
1488年
高尾城の戦い(加賀国、現:石川県金沢市)
合戦
1488年
実蒔原の戦い(相模国、現:神奈川県伊勢原市)
合戦
1488年
須賀谷原の戦い(武蔵国、現:埼玉県嵐山町)
合戦
1488年
高見原の戦い(武蔵国、現:埼玉県小川町・寄居町)
合戦
1489年
3月26日
足利義尚 室町幕府9代・征夷大将軍 退任
官職
1490年
2月
足利義政、銀閣寺(慈照寺) 建立(あしかがよしまさ ぎんかくじ(じしょうじ) こんりゅう)
文化
1490年
7月5日
足利義材 室町幕府10代・征夷大将軍 任命
官職
1493年
北条早雲(ほうじょう そううん、別名:伊勢宗瑞(いせそうずい))が伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)を滅ぼす。
行事
1493年
4月
1493年、室町幕府の実力者である管領・細川政元がクーデターを起こし、10代将軍・足利義材(よしき)を追放した大事件。この明応の政変によって、家臣がトップである将軍のクビを勝手にすげ替えるという究極の下克上(げこくじょう)が成立しました。これまで辛うじて保たれていた将軍の権威は完全に消滅し、日本の歴史において「この事件こそが真の戦国時代の始まりである」と考える歴史家も多い、室町幕府の崩壊を決定づけた歴史的ターニングポイントです。
1493年
6月29日
足利義材 室町幕府10代・征夷大将軍 退任
官職
1495年
船田合戦(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1495年
正法寺の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1495年
12月27日
足利義澄 室町幕府11代・征夷大将軍 任命
官職
1496年
城田寺城の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1500年
尚真王、先島諸島 征服(琉球・先島、現:沖縄県先島諸島)
合戦
1500年
オヤケアカハチの乱(琉球、現:沖縄県)
合戦
1502年
第一次伊庭氏の乱(近江国、現:滋賀県)
合戦
1503年
敦賀城の戦い(越前国、現:福井県北東部)
合戦
1504年
立河原の戦い(武蔵国、現:東京都立川市)
合戦
1504年
第一次淀古城の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1506年
今橋合戦(三河国、現:愛知県豊橋市)
合戦
1506年
九頭竜川の戦い(越前国、現:福井県)
合戦
1506年
般若野の戦い(越中国、現:富山県砺波市)
合戦
1507年
玉之浦納の反乱(肥前国、現:長崎県)
合戦
1508年
坊峰合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市・山梨県甲府市)
合戦
1508年
勝山合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市・山梨県甲府市)
合戦
1508年
4月16日
足利義澄 室町幕府11代・征夷大将軍 退任
官職
1508年
7月1日
足利義稙(義材) 室町幕府10代・征夷大将軍 再復帰
官職
1509年
如意ヶ嶽の戦い(近江国、現:京都市左京区)
合戦
1509年
片角軍萱の戦い(下野国、現:栃木県)
合戦
1510年
長森原の戦い(越後国、現:新潟県南魚沼市)
合戦
1510年
三浦の乱(李氏朝鮮)
合戦
1511年
深井の合戦(和泉国、現:大阪府堺市)
合戦
1511年
芦屋河原の合戦(摂津国、現:兵庫県芦屋市)
合戦
1511年
船岡山の戦い(丹波国、現:京都府京都市北区)
合戦
1512年
宇都宮錯乱(下野国、現:栃木県)
合戦
1513年
蠣崎光広の陰謀、松前の大館 攻撃(蝦夷が島、現:北海道松前郡)
合戦
1514年
竹林の戦い(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1514年
第二次伊庭氏の乱(近江国、現:滋賀県)2
合戦
?
ショヤコウジ兄弟の戦い(蝦夷が島、現:北海道)
合戦
1516年
縄釣の戦い(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1516年
第五次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1517年
有田中井手の戦い(安芸国、現:広島県)
合戦
1519年
田中城の戦い(摂津国、現:兵庫県三田市)
合戦
1519年
越水城の合戦(摂津国、現:兵庫県西宮市)
合戦
1520年
等持院の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1520年
境川の戦い(越中国、現:富山県朝日町)
合戦
1520年
新庄の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1521年
行人台の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1521年
飯田河原の戦い(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1521年
上条河原の戦い(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1522年
12月25日
足利義稙(義材) 室町幕府10代・征夷大将軍 再退任
官職
1522年
12月25日
足利義晴 室町幕府12代・征夷大将軍 任命
官職
1523年
1523年、明(中国)の港町・寧波(にんぽー)で、日本の大名である大内氏と細川氏の使節団が、貿易の権利をめぐって大規模な乱闘事件を起こした前代未聞の国際問題。当時、日本と明は勘合貿易(かんごうぼうえき)で莫大な利益を得ていましたが、有効期限切れの許可証(勘合)を使って賄賂で優先権を得ようとした細川氏に対し、正規の許可証を持っていた大内氏がブチギレて襲撃。この事件により、日本の対外的な信用は地に落ち、明との正式な貿易が一時ストップするという大惨事となりました。
1523年
鏡山城の戦い(安芸国、現:広島県西部)
合戦
1523年
河原田合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1523年
猿山合戦(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1524年
高輪原の戦い(武蔵国、現:東京都港区)
合戦
1524年
佐東銀山城の戦い(安芸国、現:広島県広島市)
合戦
1524年
大永の五月崩れ(伯耆国、現:鳥取県西部)
合戦
1525年
岩槻城の戦い(武蔵国、現:埼玉県岩槻市)
合戦
1525年
白子原の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1525年
東西蝦夷の蜂起(蝦夷が島、現:北海道)
合戦
1525年
筑前一揆(筑前国、現:福岡県)
運動
1526年
六浦攻撃(相模国、現:神奈川県鎌倉市)
合戦
1526年
鶴岡八幡宮の戦い(相模国、現:神奈川県鎌倉市)
合戦
1527年
桂川原の戦い(丹波国、現:京都府)
合戦
1527年
川勝寺口の戦い(山城国、現:京都府京都市右京区)
合戦
1529年
関東享禄の内乱(関東地方)
合戦
1530年
田手畷の戦い(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
1530年
依藤城の戦い(播磨国、現:兵庫県南西部)
合戦
1531年
中嶋の戦い(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1531年
大物崩れ(摂津国、現:兵庫県尼崎市)
合戦
1531年
享禄の錯乱(加賀国、現:石川県)
合戦
1532年
飯盛城の戦い(河内国、現:大阪府大東市、四條畷市)
合戦
1532年
8月23日
1532年、室町幕府の実権を握る細川晴元(ほそかわはるもと)、近江国の守護・六角定頼(ろっかくさだより)、そして京都の町衆を中心とする日蓮宗の法華一揆(ほっけいっき)が連合軍を組み、浄土真宗の巨大要塞であった山科本願寺(京都市)を焼き討ちにした戦いです。かつて味方として利用した一向一揆(いっこういっき)の暴走を恐れた晴元が、敵対する宗教勢力と手を結んで壊滅させました。本願寺の拠点が大坂へと移り、のちの織田信長との激闘(石山合戦)へと繋がる、戦国時代の畿内の歴史の重要な転換点です。
1533年
稲村の変(安房国、現:千葉県館山市)
合戦
1534年
犬掛の戦い(安房国、現:千葉県)
合戦
1534年
勢場ヶ原の戦い(豊後国、現:大分県臼杵市)
合戦
1534年
天文の内乱(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1534年
5月12日
織田信長が生まれる
誕生
織田信長は、尾張国(おわりのくに、現:愛知県)の戦国大名・織田信秀(おだのぶひで)の嫡男と母・土田御前(どたごぜん)の間に生まれる。
1535年
山中の戦い(甲斐国、現:山梨県南都留郡山中湖村)
合戦
1535年
森山崩れ(尾張国、現:愛知県名古屋市守山区)
合戦
1536年
花倉の乱(駿河国、現:静岡県静岡市)
合戦
1536年
第一次河東一乱(駿河国、現:静岡県)
合戦
1536年
伏野原の戦い(薩摩国、現:鹿児島県鹿児島市)
合戦
1536年
7月22日
1536年、古くから権力を持つ天台宗(総本山:比叡山延暦寺)と、京都の町民たちに大流行していた日蓮宗(法華宗)が激突した巨大な宗教戦争。新興勢力である日蓮宗の勢いが増し、京都で「法華一揆」と呼ばれる自治を行うようになると、これに危機感を抱いた延暦寺が近江の守護大名・六角氏らと結託して京都を大襲撃しました。この戦いで京都の市街地はあの応仁の乱を上回るほどの壊滅的な大火災となり、日蓮宗の寺院はすべて焼き払われ、信徒たちは京都から追放されました。
1537年
松山城風流合戦(武蔵国、現:埼玉県比企郡吉見町)
合戦
1537年
2月6日
尾張国愛知郡(現:愛知県名古屋市)で木下弥右衛門(諸説)、なか(後:大政所、天瑞院)の間に生まれる。幼名は日吉丸だったとされる。
他
1538年
第一次国府台の戦い(下総国、現:千葉県)
合戦
1539年
第一次枝吉城の戦い(播磨国、現:兵庫県神戸市西区)
合戦
1540年
安城合戦(三河国、現:愛知県安城市)
合戦
1540年
吉田郡山城の戦い(安芸国、現:広島県安芸高田市)
合戦
1541年
佐東銀山城の戦い(安芸国、現:広島県広島市)
合戦
1541年
一庫城の戦い(摂津国、現:兵庫県川西市)
合戦
1541年
海野平の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1541年
木倉原の戦い(肥後国、現:熊本県上益城郡御船町)
合戦
1542年
瀬沢の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1542年
桑原城の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1542年
福与城の戦い(信濃国、現:長野県上伊那郡箕輪町)
合戦
1542年
第一次月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1542年
天文の乱(陸奥国、出羽国、現:東北地方)
合戦
1542年
太平寺の戦い(河内国、現:大阪府南東部)
合戦
1542年
第一次小豆坂の戦い(三河国、現:愛知県東半部)
合戦
1542年
宮川の戦い(信濃国、現:長野県茅野市)
合戦
1542年
12月26日
三河国・岡崎城(現:愛知県岡崎市)にて、城主の松平広忠の長男として寅の刻(朝4時頃)に生まれる。幼名は竹千代。
他
1543年
1543年、日本の南端にある大隅国・種子島(現在の鹿児島県)に、明(中国)の船が嵐で漂着しました。その船に乗っていたポルトガル人によって、日本に初めて鉄砲(火縄銃)がもたらされた歴史的事件です。島の若き領主・種子島時堯は、その圧倒的な威力に驚き、高価な鉄砲を購入。地元の刀鍛冶である八板金兵衛らに命じて、ネジの仕組みなどの困難を乗り越え、わずか1年足らずで国産化に成功しました。その後、鉄砲は瞬く間に全国へ広まり、戦国時代の戦い方を根本から変えるゲームチェンジャーとなりました。
1543年
神辺合戦(備後国、現:広島県福山市)
合戦
1544年
第一次湊騒動(出羽国、現:秋田県)
運動
1544年
布野崩れ(備後国、現:広島県三次市)
合戦
1544年
加納口の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1544年
高遠合戦(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1545年
光明寺に入るがすぐに寺を飛び出す。
行事
『太閤素性記』
1545年
種子島で日本国内初の国産鉄砲を完成する。
文化
1545年
第二次河東一乱(駿河国、現:静岡県)
合戦
1545年
狐橋の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1546年
河越城の戦い(武蔵国、現:埼玉県川越市)
合戦
1546年
橋津川の戦い(伯耆国、現:鳥取県)
合戦
1547年
今川家の人質となるために駿府に向っていたが、途中の田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られる。
行事
1547年
小田井原の戦い(信濃国、現:長野県佐久市)
合戦
1547年
吉良・大浜の戦い(尾張国、現:愛知県)
合戦
1547年
舎利寺の戦い(摂津国、現:大阪府生野区)
合戦
1547年
12月20日
足利義晴 室町幕府12代・征夷大将軍 退任
官職
1547年
12月20日
足利義輝 室町幕府13代・征夷大将軍 任命
官職
1548年
第二次小豆坂の戦い(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1548年
上田原の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1548年
塩尻峠の戦い(信濃国、現:長野県塩尻市・岡谷市)
合戦
1549年
駿府の今川義元により、竹千代と織田信広の人質交換により、駿府へ移る。
事件
1549年
江口の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市東淀川区)
合戦
1549年
喜連川五月女坂の戦い(下野国、現:栃木県)
合戦
1549年
8月15日
1549年、スペイン人の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた歴史的ビッグイベントです。彼が所属するイエズス会は、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあるキリスト教(カトリック)を世界中に広めるためにやってきました。「以後よく(1549)広まるキリスト教」という語呂合わせでも超有名。このキリスト教伝来をキッカケにヨーロッパとの南蛮貿易が盛んになり、日本の戦国武将たちの運命や、のちの江戸幕府の「鎖国」へと繋がる巨大な歴史のドミノが倒れ始めました。
1550年
砥石城の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1550年
中尾城の戦い(山城国、現:京都府京都市左京区)
合戦
1551年
今川氏の直臣飯尾氏の配下で曳馬城(ひくま、現:浜松城)支城の頭陀寺城主(現:静岡県浜松市中央区頭陀寺)である松下之綱(加兵衛)に仕える。
行事
1551年
坂戸城の戦い(越後国、現:新潟県南魚沼市)
合戦
1551年
相国寺の戦い(山城国、現:京都府京都市上京区)
合戦
1551年
大寧寺の変(周防国、長門国、現:山口県)
合戦
1552年
赤塚の戦い(尾張国、現:愛知県名古屋市緑区)
合戦
1552年
萱津の戦い(尾張国、現:愛知県あま市)
合戦
1553年
鑓場の戦い(阿波国、現:徳島県徳島市)
合戦
1553年
東山霊山城の戦い(山城国、現:京都府[京都市東山区
合戦
1553年
第一次川中島の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1554年
尾張国・織田信長に仕官。小者として仕える。
行事
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して成果を上げ、頭角を現し始める。逸話として、信長の草履取りをした際、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は藤吉郎を大いに褒め称えたという記録がある。
1554年
黒井城・乗っ取り戦(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1554年
安食の戦い(尾張国、現:愛知県)
合戦
1554年
三本松城の戦い(石見国、現:島根県津和野町)
合戦
1554年
折敷畑の戦い(安芸国、現:広島県西部)
合戦
1554年
防芸引分(安芸国、現:広島県廿日市市)
合戦
1554年
第一次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1554年
村木砦の戦い(尾張国、現:愛知県知多郡)
合戦
1554年
第二次枝吉城の戦い(播磨国、現:兵庫県神戸市西区)
合戦
1554年
北条城の戦い(越後国、現:新潟県柏崎市)
合戦
1555年
三河忩劇(三河国、現:愛知県岡崎市、豊田市)
合戦
1555年
仁保島合戦(安芸国、現:広島市南区)
合戦
1555年
第二次川中島の戦い(信濃国、現:長野県)
合戦
1555年
厳島の戦い(安芸国、現:広島県廿日市市)
合戦
1555年
弘治の内乱(能登国、現:石川県)
合戦
1555年
防長経略(周防国、長門国、現:山口県)
合戦
1556年
雨山合戦(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1556年
長良川の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1556年
忍原崩れ(石見国、現:島根県大田市)
合戦
1556年
稲生の戦い(尾張国、現:愛知県名古屋市)
合戦
1556年
駒帰の戦い(越後国、現:新潟県糸魚川市)
合戦
1557年
今川氏一門の関口親永(氏純)の娘・築山殿(瀬名姫)と結婚する。
行事
1557年
日近合戦(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1557年
第三次川中島の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1558年
多功ヶ原の戦い(下野国、現:栃木県河内郡上三川町)
合戦
1558年
北白川の戦い(山城国、現:京都府京都市左京区)
合戦
1558年
石ヶ瀬川の戦い(尾張国、現:愛知県大府市、知多郡東浦町)
合戦
1558年
浮野の戦い(尾張国、現:愛知県一宮市)
合戦
1558年
第二次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1558年
2月5日
寺部城の戦い
合戦
松平元康(後、徳川家康)の初陣。今川義元の命により、織田氏に寝返った加茂郡寺部城主・鈴木重辰を松平重吉らとともに攻める。寺部城(現:愛知県豊田市)にある。
1559年
合勢川の戦い(肥後国、現:熊本県山鹿市)
合戦
1559年
獺野原の戦い(肥後国、現:熊本県多良木町)
合戦
1559年
降露坂の戦い(石見国、現:島根県大田市)
合戦
1559年
第三次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1559年
3月5日
駿府にて築山殿との間に嫡男・信康が生まれる。
行事
1560年
茂福合戦(伊勢国、現:三重県)
合戦
1560年
小田倉の戦い(陸奥国、現:現福島県西白河郡西郷村)
合戦
1560年
長浜の戦い(土佐国、現:高知県高知市)
合戦
1560年
潮江城の戦い(土佐国、現:高知県高知市)
合戦
1560年
野良田の戦い(近江国、現:滋賀県彦根市)
合戦
1560年
小田原城の戦い(相模国、上野国、武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1560年
5月19日
1560年、尾張(愛知県)の小大名だった織田信長が、駿河(静岡県)の巨大な力を持つ大大名・今川義元の約2万5千の大軍を、わずか数千の兵で破った歴史的な大番狂わせの合戦。この桶狭間の戦いでの劇的な勝利によって、名もなき若武者だった信長は一躍全国に名を轟かせ、天下統一への道を歩み始めました。逆に敗れた今川氏は没落し、日本の歴史が大きく動く転換点となった戦国時代屈指の有名な戦いです。
1560年
5月19日
木下藤吉郎が桶狭間の戦いに参戦する。
合戦
1561年
第一次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1561年
第四次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1561年
善明堤の戦い(三河国、現:愛知県)
合戦
1561年
藤波畷の戦い(三河国、現:愛知県西尾市)
合戦
1561年
将軍地蔵山の戦い(山城国、現:京都市左京区)
合戦
1561年
川上峡合戦(肥前国、現:佐賀県佐賀市)
合戦
1561年
第二次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1561年
8月
浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おね(後:高台院、ねね)と結婚する。
他
1561年
9月
1561年、戦国時代最強と謳われた「甲斐の虎」武田信玄と「越後の龍」上杉謙信が、信濃国(長野県)の領土を巡って激突した超有名な大合戦です。二人は合計5回も戦いましたが、この「第四次」が最も激しく、両軍合わせて約8千人もの死傷者を出す大惨事となりました。有名な「啄木鳥(きつつき)の戦法」や、信玄と謙信の伝説の一騎打ちなど、戦国ドラマのハイライトが詰まっています。この二人の最強武将が川中島で長年足止めを食らったことが、のちに織田信長の急成長を許す歴史の大きな伏線となりました。
1562年
第三次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1562年
久米田の戦い(和泉国、現:大阪府岸和田市)
合戦
1562年
第五次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1562年
1月15日
家康、清洲城を訪問し、織田信長と同盟を結ぶ。
行事
1562年
5月19日
1562年、畿内(現在の近畿地方)の覇者である三好長慶(みよしながよし)と、旧勢力である畠山高政・六角義賢の巨大な同盟軍が激突した戦国時代屈指の大規模な戦いです。弟の戦死という絶体絶命の危機を乗り越え、長慶や松永久秀らの三好軍が旧守護大名の連合軍を打ち破りました。この勝利により、長慶は畿内の絶対的な支配権を確立し、三好政権は絶頂期を迎えます。しかし、有能な一族を失った三好氏はやがて衰退へと向かい、後の織田信長の台頭を許すこととなる歴史の重要な転換点です。
1563年
1563年から翌年にかけて、三河国(現在の愛知県)で起こった浄土真宗(一向宗)の門徒たちによる大規模な反乱です。若き日の徳川家康(当時の名は松平家康)の家臣が、お寺の特権を侵したことをきっかけに蜂起しました。家康の家臣の半数が一揆側に寝返り、家康自身も銃撃を受けるなど、徳川家が滅亡の危機に瀕した激しい内乱です。最終的に家康は和睦を結んだ後に一向宗を弾圧して事態を収束させ、三河の完全支配と家臣団の強い結束力を生み出す決定的な契機となりました。
1563年
第四次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1563年
三村の戦い(常陸国、現:茨城県)
合戦
1563年
辛垣合戦(武蔵国、現:東京都)
合戦
1563年
湯所口の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1563年
白鹿城の戦い(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1564年
弓浜合戦(出雲国、現:伯耆国、現:島根県松江市、現:鳥取県境港市・米子市)
合戦
1564年
第二次国府台の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1564年
第五次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1564年
山王堂の戦い(常陸国、現:栃木県筑西市)
合戦
1564年
第五次川中島の戦い(信濃国、現:長野県長野市)
合戦
1564年
第二次足利城の戦い(下野国、現:栃木県足利市)
合戦
1564年
第六次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1565年
第二次月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1565年
永禄の変(山城国、現:京都府京都市中京区)
合戦
1565年
山中幸盛・品川将員の一騎討ち(出雲国、現:島根県安来市広瀬町)
合戦
1565年
中濃攻略戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
堂洞合戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
関・加治田合戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
第六次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1565年
5月19日
足利義輝 室町幕府13代・征夷大将軍 退任
官職
1566年
1566年、松平元康(のちの徳川家康)が故郷である三河国(現在の愛知県東部)を完全に平定し、統一を果たした出来事です。桶狭間の戦いで今川家から独立した家康は、織田信長と清洲同盟を結んで背後を固めました。その後、家臣団が真っ二つに割れる最大の危機であった三河一向一揆を苦難の末に鎮圧し、強力な「三河武士」の結束力を築き上げます。ついに東三河の今川勢を追い出して三河一国を統一し、朝廷から「徳川」の姓を許され、戦国大名として飛躍する歴史の決定的な契機となりました。
1566年
家康、徳川に改姓
他
1566年
墨俣一夜城 築城
行事
墨俣城(すのまたじょう)は、岐阜県大垣市墨俣町にある。この一夜城の築城に藤吉郎は功績を上げたとされる。※逸話
1566年
滝山城の戦い(摂津国、現:兵庫県神戸市)
合戦
1566年
臼井城の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1566年
第七次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1566年
河野島の戦い(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1566年
箕輪城の戦い(上野国、現:群馬県高崎市)
合戦
1566年
12月29日
藤原徳川氏に改姓。従五位下に叙位し、三河守に任官となる。
官職
1567年
第七次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1567年
第八次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1567年
東大寺大仏殿の戦い(大和国、現:奈良県奈良市)
合戦
1567年
明善寺合戦(備前国、現:岡山県岡山市)
合戦
1567年
休松の戦い(筑前国、現:福岡県甘木市))
合戦
1567年
稲葉山城の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1567年
三船山合戦(上総国、現:千葉県君津市、富津市)
合戦
1567年
毛利氏・伊予出兵(伊予国、現:愛媛県)
合戦
1568年
駿河と遠江の分割を武田信玄と約束し、遠江に侵入する。
行事
1568年
高島の戦い(伊予国、現:愛媛県大洲市)
合戦
1568年
鳥坂峠の戦い(伊予国、現:愛媛県大洲市)
合戦
1568年
第九飫肥役(日向国、現:宮崎県日南市)
合戦
1568年
本庄繁長の乱(越後国、現:新潟県村上市)
合戦
1568年
信貴山城の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
1568年
勝竜寺城の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1568年
第八次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
1568年
武田信玄、駿河侵攻(駿河国、現:静岡県)
合戦
1568年
薩埵峠の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1568年
1月11日
家康、左京大夫に叙せられる。
官職
1568年
2月8日
足利義栄 室町幕府14代・征夷大将軍 任命
官職
1568年
9月12日
観音寺城の戦い
合戦
1568年
9月30日
足利義栄 室町幕府14代・征夷大将軍 退任
官職
1568年
10月18日
足利義昭 室町幕府15代・征夷大将軍 任命
官職
1569年
多々良浜の戦い(筑前国、現:福岡県福岡市東区)
合戦
1569年
青山・土器山の戦い(播磨国、現:兵庫県)
合戦
1569年
八流の戦い(土佐国、現:高知県)
合戦
1569年
尼子再興軍の雲州侵攻(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1569年
月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1569年
原手合戦(出雲国、現:島根県出雲市)
合戦
1569年
美保関の合戦(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1569年
大河内城の戦い(伊勢国、現:三重県松阪市)
合戦
1569年
三増峠の戦い(相模国、現:神奈川県愛甲郡愛川町)
合戦
1569年
大内輝弘の乱(周防国、現:山口県)
合戦
1569年
手這坂の戦い(常陸国、現:茨城県)
合戦
1569年
松倉城の戦い(越中国、現:富山県魚津市)
合戦
1569年
1月5日
1569年、織田信長が足利義昭を第15代将軍に擁立した直後、京都の六条本圀寺(ほんこくじ)で起きた大規模な将軍襲撃事件です。信長が岐阜へ帰った隙を狙い、畿内奪還を目論む三好三人衆や斎藤龍興らの大軍が将軍の仮御所を急襲しました。守備隊の明智光秀らの決死の防戦と味方の援軍により見事撃退に成功。急報を聞いた信長が豪雪の中をわずか2日で岐阜から京都へ電撃帰還したことでも有名です。この事件を機に信長は強固な二条城の建設を開始し、畿内の支配体制をさらに強める決定的な契機となった、戦国時代の重要な歴史の分岐点です。
1570年
岡崎から遠江国に移り、浜松城を築いて本城とする岡崎から遠江国の曳馬(ひくま)に移り、「浜松」と改名
行事
1570年
第二次湊騒動(出羽国、現:秋田県)
運動
1570年
第九次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1570年
布部山の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1570年
元亀の変(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1570年
今山の戦い(肥前国、現:佐賀県佐賀市)
合戦
1570年
金ヶ崎の戦い(越前国、現:福井県敦賀市)
合戦
1570年
野洲河原の戦い(近江国、現:滋賀県野洲市)
合戦
1570年
野田・福島の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市福島区)
合戦
1570年
志賀の陣(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
宇佐山城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
堅田の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
石山合戦(摂津国、現:大阪府)
合戦
1570年
長島一向一揆(伊勢国、現:三重県桑名市)
運動
1570年
平塚原の戦い(常陸国、現:茨城県つくば市)
合戦
1570年
上村合戦(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1570年
4月
金ヶ崎の戦い
合戦
織田信長・徳川家康と朝倉義景、浅井長政の連合軍との戦いだが、金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)、金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦である。北近江の浅井長政は、尾張・織田信長・越前・朝倉義景の両国と同盟関係を結んでいた。しかし、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交。同盟である妹婿の浅井による裏切りにあった信長は危機に瀕して撤退を開始する。結果、信長を逃がしてしまうが、朝倉・浅井連合軍の勝利となる。木下藤吉郎は信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した。
1570年
6月28日
1570年、近江国(現在の滋賀県)の姉川を舞台に激突した、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍による大激戦。信長のかわいい妹・お市の方の夫である長政が信長を裏切ったことから始まった骨肉の争いです。一時は浅井軍の猛攻により織田軍が崩れかけるほどの激戦でしたが、家康の側面攻撃などにより織田・徳川連合軍が逆転勝利を収めました。信長の天下統一に向けた大きな関門となった姉川の戦いは、戦国時代の残酷な人間ドラマを象徴する有名な合戦です。
1571年
二連木城の戦い(三河国、現:愛知県豊橋市)
合戦
1571年
辰市城の合戦(大和国、現:奈良県奈良市)
合戦
1571年
白井河原の戦い(摂津国、現:大阪府茨木市)
合戦
1571年
尚元王、奄美大島 侵攻支配強化(琉球、奄美大島)
合戦
1571年
1月5日
家康、従五位上に叙せられる。
官職
1571年
1月11日
家康、侍従に叙せられる。
官職
1571年
9月12日
1571年、天下統一を目指す織田信長が、仏教の聖地であった延暦寺(えんりゃくじ)を武力で壊滅させた衝撃的な事件です。当時、強大な軍事力と権威を持っていた延暦寺は、信長に敵対する浅井・朝倉軍をかくまい、度重なる警告を無視し続けました。激怒した信長は、山全体の建造物を焼き払い、僧侶や女子供まで数千人を皆殺しにするという前代未聞の弾圧を行いました。中世の宗教的権威を根本から破壊し、政教分離の端緒を開いた歴史の重要な分岐点です。
1572年
木崎原の戦い(日向国、現:宮崎県えびの市)
合戦
1572年
尻垂坂の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1572年
西上作戦(遠江国、三河国、美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1572年
岩村城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1572年
仏坂の戦い(遠江国、現:静岡県)
合戦
頃
秀吉「羽柴秀吉」に改名
他
1572年
10月
1572年10月、上洛を目指す武田信玄の軍勢と、迎え撃つ徳川家康の軍勢が衝突した局地的な戦いです。圧倒的な兵力を誇る武田軍の偵察に出た家康の部隊が、一言坂(静岡県磐田市)で敵の本隊とばったり遭遇してしまい、絶体絶命の撤退戦を強いられました。この大ピンチの中、家康の家臣である本多忠勝(ほんだただかつ)が自ら殿(しんがり)を引き受け、命がけで敵を食い止めて家康を逃がしました。この戦いは、のちの三方ヶ原の戦いへと繋がる歴史の重要な分岐点となった前哨戦です。
1572年
10月16日
二俣城の戦い
合戦
1573年 〜 1603年
1573年に織田信長が室町幕府を滅ぼしてから、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くまでの約30年間。信長が長篠の戦いで鉄砲を活用し天下統一に突き進むも、本能寺の変で倒れます。その意志を継いだ豊臣秀吉が全国統一を果たし、太閤検地や刀狩などの画期的な政策で国を整備しました。華やかでダイナミックな桃山文化が栄え、ヨーロッパとの南蛮貿易も盛んに行われました。わずか30年という短い期間ながら、日本の歴史が最も熱く激しく動いた時代です。
1573年
野田城の戦い(三河国、現:愛知県新城市)
合戦
1573年
石山城・今堅田城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1573年
二条御所の戦い(山城国、現:京都府京都市上京区)
合戦
1573年
上京焼き討ち(山城国、現:京都府)
合戦
1573年
上桜城の戦い(阿波国、現:徳島県吉野川市)
合戦
1573年
槇島城の戦い(山城国、現:京都府京都市・宇治市)
合戦
1573年
第二次淀古城の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1573年
鳥取のたのも崩れ(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1573年
尼子再興軍による鳥取城の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1573年
六坊賢松寺の戦い(越前国、現:福井県大野市)
合戦
1573年
若江城の戦い(河内国、現:大阪府東大阪市)
合戦
1573年
8月8日
1573年、天下統一を目指す織田信長が、義弟である浅井長政(あざいながまさ)の居城・小谷城(滋賀県)を攻め落とした戦いです。かつて強固な同盟を結んでいた両者でしたが、長政が朝倉氏に味方して信長を裏切ったことから激しい対立が続いていました。信長は朝倉氏を滅ぼした勢いで小谷城を包囲し、羽柴秀吉らの活躍により城を陥落させます。お市の方と浅井三姉妹は救出されましたが、長政は自刃し浅井氏は滅亡。信長包囲網を打ち破り、天下統一を大きく前進させる決定的な契機となりました。
1573年
8月13日
1573年、天下統一を目指す織田信長と、越前国(福井県)の名門・朝倉義景による決戦です。浅井氏を救援するために出陣した朝倉軍(約2万)でしたが、織田軍(約3万)の猛攻を受けて撤退します。信長は退却する朝倉軍を激しく追撃し、刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を与えました。その後、信長軍は朝倉氏の本拠地である一乗谷へと雪崩れ込み、100年続いた華やかな都を焼き尽くします。逃亡した朝倉義景はいとこの裏切りに遭い自刃して朝倉氏は滅亡しました。信長の天下布武への道を決定づける歴史の端緒を開いた事件です。
1573年
9月
織田信長の命により、秀吉に浅井氏旧領・江北三郡12万石を与えられる。
行事
1573年
12月22日
1573年(元亀3年)、京都へ向かって猛進する戦国最強の武将・武田信玄(たけだしんげん)の軍勢と、それを迎え撃った徳川家康(とくがわいえやす)の軍勢が、遠江国(現在の静岡県浜松市)の三方ヶ原で激突した戦いです。結果は、信玄の巧みな戦術と圧倒的な武力の前に家康軍がコテンパンに打ち負かされる大敗北となりました。命からがら逃げ帰った家康にとって、生涯で最大の負け戦(トラウマ)であり、同時に「自分への戒め」として大きく成長するキッカケとなった非常に有名なエピソードです。
1574年
近江国・長浜城主に任命され、長浜城へ入城。
官職
長浜城は、羽柴秀吉が築城した城(現:滋賀県長浜市公園町)。秀吉は、今浜(いまはま)と呼ばれていた地名を「長浜(ながはま)」に改名した。
1574年
越前一向一揆(越前国、現:福井県)
運動
1574年
天正最上の乱(出羽国、現:山形県)
合戦
1574年
明知城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1574年
飯羽間城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1574年
天神山城の戦い(備前国、美作国)
合戦
1574年
第一次高屋城の戦い(河内国、現:大阪府羽曳野市)
合戦
1574年
第一次高天神城の戦い(遠江国、現:静岡県掛川市)
合戦
1574年
金ヶ崎合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1574年
備中兵乱(備中国、現:岡山県)
合戦
1574年
1月5日
家康、正五位下に叙せられる。
官職
1575年
第二次高屋城の戦い(河内国、現:大阪府羽曳野市)
合戦
1575年
岩村城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1575年
四万十川の戦い(土佐国、現:高知県四万十市)
合戦
1575年
野田合戦(但馬国、現:兵庫県豊岡市)
合戦
1575年
第一次黒井城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1575年
6月29日
1575年、三河国(愛知県)の長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康の連合軍と、最強と恐れられた武田勝頼の軍勢が激突した歴史的な大合戦です。武田の「無敵の騎馬隊」に対し、信長は大量の鉄砲と馬を防ぐための馬防柵(ばぼうさく)を用意しました。鉄砲隊を3列に並べて順番に撃ち続ける「三段撃ち」という画期的な新戦術により、織田・徳川連合軍が圧勝!刀や槍を使った力技の戦いから、最新の武器を使った近代的な戦術へと、日本の戦いの歴史が劇的に変わる大転換点となりました。
1575年
7月3日
秀吉、信長の命により筑前守となる。
行事
1576年
天王寺の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1576年
第一次木津川口の戦い(摂津国、現:大阪府木津川)
合戦
1576年
第一次七尾城の戦い(能登国、現:石川県七尾市)
合戦
1577年
織田信長・紀州征伐(紀伊国、現:和歌山県)
合戦
1577年
英賀合戦(播磨国、現:兵庫県姫路市飾磨区)
合戦
1577年
第二次七尾城の戦い(能登国、現:石川県七尾市)
合戦
1577年
中国攻め(中国地方)
合戦
1577年
竹田城の戦い(但馬国、現:兵庫県朝来市)
合戦
1577年
9月23日
手取川の戦い
合戦
加賀国の手取川(主に石川県白山市)において、上杉謙信軍と織田信長軍の合戦である。結果、上杉謙信軍が織田信長軍を撃破して上杉軍の圧勝となった。
1577年
10月5日
信貴山城の戦い
合戦
織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城である信貴山城(現:奈良県生駒郡平群町信貴畑)で行われた攻城戦(第三次信長包囲網)。結果、織田軍が勝利した。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。
1578年
有岡城の戦い(摂津国、現:兵庫県伊丹市)
合戦
1578年
小川台合戦(常陸国、現:茨城県筑西市)
合戦
1578年
御館の乱(越後国、現:新潟県)
合戦
1578年
居多浜の戦い(越後国、現:新潟県上越市)
合戦
1578年
第一次太田城の戦い(紀伊国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1578年
石城合戦(日向国、現:宮崎県児湯郡木城町)
合戦
1578年
第五次八上城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波篠山市)
合戦
1578年
耳川の戦い(日向国、現:宮崎県木城町)
合戦
1578年
第二次木津川口の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1578年
月岡野の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1578年
4月18日
上月城の戦い
合戦
播磨国・上月城(現:兵庫県佐用郡佐用町)で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦。結果、毛利軍の勝利、尼子氏は滅亡した。
1578年
5月5日
三木合戦
合戦
織田軍と播磨三木城(現:兵庫県三木市)に篭城した別所氏の合戦で1年10ヶ月続いた(播州征伐の1つ)。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろ)と呼ばれる。結果、織田信長の勝利して、播磨を平定した。
1578年
12月10日
家康、従四位下に叙せられる。
官職
1578年
12月29日
家康、右近衛権少将に叙せられる。
官職
1579年
家康の正室・築山殿を殺害。嫡男・信康を切腹とする。
事件
武田家への内通疑惑がかけられた築山殿を殺害、信康を切腹させた。
織田信長の命により、実行したといわれている。※諸説あり
1579年
御着城の戦い(播磨国、現:兵庫県姫路市)
合戦
1579年
御館の戦い(越後国、現:新潟県上越市)
合戦
1579年
六羽福知山城川合戦(陸奥国、現:青森県平川市)
合戦
1579年
第二次黒井城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1579年
横山城の戦い(丹波国、現:京都府福知山市)
合戦
1579年
八木城の戦い(丹波国、現:京都府南丹市)
合戦
1579年
4月7日
徳川秀忠が生まれる
誕生
徳川家康(とくがわいえやす)と西郷局(さいごうのつぼね)の間に三男として遠江国浜松城に生まれる。
1580年
且過瀬の戦い(肥後国、現:熊本県熊本市)
合戦
1580年
千本松原の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1580年
御代田合戦(陸奥国、現:福島県郡山市)
合戦
1580年
花隈城の戦い(摂津国、現:兵庫県神戸市中央区)
合戦
1580年
長和田・長瀬川の戦い(伯耆国、現:鳥取県北栄町)
合戦
1580年
1月5日
家康、従四位上に叙せられる。
官職
1581年
武田方の高天神城を攻略し、遠江の全域を平定する。
行事
1581年
鳥取城の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1581年
第二次高天神城の戦い(遠江国、現:静岡県掛川市)
合戦
1581年
柳川の戦い(肥後国、現:熊本県)
合戦
1581年
天正伊賀の乱(伊賀国、現:三重県)
合戦
1581年
比自山城の戦い(伊賀国、現:三重県)
合戦
1581年
新発田重家の乱(越後国、現:新潟県新発田市、新潟市)
合戦
1581年
彦山焼き討ち(豊前国、現:福岡県田川郡添田町、大分県中津市)
合戦
1581年
響野原の戦い(肥後国、現:熊本県宇城市)
合戦
1582年
高野山攻め(紀伊国、現:和歌山県伊都郡高野町)
合戦
1582年
甲州征伐(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1582年
高遠城の戦い(信濃国、現:長野県高遠町)
合戦
1582年
天目山の戦い(甲斐国、現:山梨県甲州市)
合戦
1582年
魚津城の戦い(越中国、現:富山県魚津市)
合戦
1582年
八浜合戦(備前国、現:岡山県玉野市)
合戦
1582年
神流川の戦い(武蔵国、現:埼玉県)
合戦
1582年
黒駒合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市)
合戦
1582年
加治田・兼山合戦(美濃国)
合戦
1582年
第一次十河城の戦い(讃岐国)
合戦
1582年
中富川の戦い(阿波国、現:徳島県藍住町)
合戦
1582年
八日町の戦い(飛騨国、現:岐阜県高山市)
合戦
1582年
4月
1582年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が毛利氏の配下である清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めにした戦いです(備中高松城の戦い)。低湿地という地形を利用し、堤防を築いて川の水を流し込むという前代未聞の奇策で城を孤立させました。しかし攻城戦の最中、主君・織田信長が討たれる「本能寺の変」が発生。秀吉は信長の死を隠したまま宗治の切腹を条件に講和を結び、すぐさま畿内へと引き返す「中国大返し」を成功させました。天下人・秀吉の誕生へと直結する歴史の重要な分岐点です。
1582年
6月
1582年の本能寺の変で織田信長が急死した直後、かつて武田氏が支配していた旧武田領(現在の山梨県・長野県・群馬県)という広大な「空き地」をめぐって起きた領土争奪戦です。徳川家康、北条氏直(ほうじょううじなお)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)という東日本の三大勢力が入り乱れて激突しました。最終的に外交と調略を駆使した家康が勝利して5カ国を治める大大名へと急成長し、のちに豊臣秀吉の最大のライバルとなるための力を手に入れた重要な戦いです。
1582年
6月2日
1582年、天下統一を目前にしていた織田信長が、最も信頼していた家臣・明智光秀の裏切りに遭い、京都の本能寺で自害した日本史最大の大事件です。天下人の突然の死は、戦国時代の特大ドミノの1枚目となりました。この事件を知った豊臣秀吉が猛スピードで引き返して光秀を討ち取り(中国大返し・山崎の戦い)、一気に天下人へと駆け上がります。また、観光中だった徳川家康が命からがら逃げ帰る(神君伊賀越え)など、この日を境にすべての武将の運命と日本の歴史が完全にひっくり返る、最重要のターニングポイントです。
1582年
6月2日
本能寺の変により、織田信長 自刃
死去
1582年
6月2日
1582年6月、本能寺の変で織田信長が討たれた直後、和泉国・堺(大阪府)に滞在していた徳川家康が、明智光秀の追手や落ち武者狩りから逃れ、本国である三河国(愛知県)へと決死の逃避行を行った事件です。わずか数十人の供回りしかいない絶体絶命の状況下で、服部半蔵や本多忠勝らの家臣団、さらに伊賀の地侍たちの協力を得て、険しい山々(伊賀や甲賀)を越えて無事に帰還を果たしました。家康の生涯最大の危機と言われ、この苦難を乗り越えたことで家臣団の結束がさらに強固となり、のちの天下取りへの大きな足がかりとなった歴史的事件です。
1582年
6月4日
1582年6月、備中国(現在の岡山県)で毛利軍と戦っていた豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、主君・織田信長が討たれた本能寺の変の知らせを受け、全軍を率いて京都方面へ猛スピードで引き返した前代未聞の撤退行軍です。秀吉は毛利氏と電撃的な和睦を結び、約2万の軍勢を率いて約200kmの道のりをわずか10日足らずで踏破しました。この驚異的な行動力によって明智光秀を討ち破る山崎の戦いへと繋がり、秀吉が天下人へと駆け上がる歴史の決定的な契機となりました。
1582年
6月13日
1582年、本能寺の変で織田信長を裏切った明智光秀と、信長の仇を討つために猛スピードで引き返してきた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が激突した、運命の弔い合戦です。これを山崎の戦い(やまざきのたたかい)と呼びます。勝負の鍵を握る「天王山」という山を先に占拠した秀吉軍が、圧倒的な兵力で光秀軍を撃破。敗れた光秀は逃亡中に命を落としました(三日天下)。この戦いで「信長様の仇を討った大英雄」となった秀吉は、一気に織田家のトップに立ち、天下人へと駆け上がるための超重要な歴史のドミノを倒したのです。
1582年
6月27日
1582年の本能寺の変で織田信長が急死した直後、尾張国の清洲城(現在の愛知県)で開かれた、織田家の跡継ぎと領地配分を決める超重要な運命の会議が清洲会議(きよすかいぎ)です。筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)と、信長の仇を討って勢いに乗る羽柴秀吉(はしばひでよし)が激しく対立しました。秀吉が信長のまだ幼い孫である三法師(さんぼうし)を強引に跡継ぎに押し切ったことで、秀吉が織田家を乗っ取り、天下人へと駆け上がる最大の特大ドミノとなりました。
1583年
1583年、天下人への道を突き進む羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、かつての石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地に日本最大級の巨大要塞である大坂城(おおさかじょう)の建設をスタートさせた出来事です。信長が10年がかりで戦った最強の宗教都市の跡地を整備し、金箔瓦が輝く豪華絢爛な天守閣を建てました。これは「俺が信長様の後継者だ!」という全国の武将に対する強烈なアピールであり、ここから大坂(現在の大阪)が日本の政治と経済の超重要拠点へと発展していく特大ドミノとなりました。
1583年
放生橋の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1583年
立花山の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1583年
北ノ庄城の戦い(越前国、現:福井県福井市)
合戦
1583年
引田の戦い(讃岐国、現:香川県東かがわ市)
合戦
1583年
4月20日
1583年、本能寺の変のあとの織田家の跡目争いから発展した、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と織田家筆頭家老・柴田勝家による覇権争いです。近江国(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で激突し、味方の裏切りや秀吉の驚異的な大移動劇によって、秀吉軍が勝利しました。敗れた勝家は妻のお市の方と共に自害。これにより秀吉が織田信長の実質的な後継者(天下人)となることが決定づけられた、歴史のドミノを動かす重要な出来事です。
1583年
10月5日
家康、正四位下に叙せられる。
官職
1583年
10月7日
家康、左近衛権中将に叙せられる。
官職
1583年
11月
羽柴秀吉が大坂城に本拠を移転する。
行事
1584年
八幡表の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1584年
羽黒・八幡林の戦い(尾張国、現:愛知県犬山市)
合戦
1584年
岩崎城の戦い(尾張国、現:愛知県日進市)
合戦
1584年
長久手の戦い(尾張国、現:愛知県長久手市)
合戦
1584年
竹ヶ鼻城の水攻め(尾張国、現:岐阜県羽島市)
合戦
1584年
蟹江城合戦(尾張国、現:愛知県蟹江町)
合戦
1584年
末森城の戦い(能登国、現:石川県宝達志水町)
合戦
1584年
沼尻合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1584年
沖田畷の戦い(肥前国、現:長崎県)
合戦
1584年
第二次十河城の戦い(讃岐国)
合戦
1584年
阿蘇合戦(肥後国、現:熊本県)
合戦
1584年
2月27日
家康、従三位参議に叙せられる。
官職
1584年
3月
1584年、本能寺の変の後に急速に力をつけた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と、それを快く思わない織田信長の次男・織田信雄、そして徳川家康の連合軍が激突した大戦です。これが小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)です。戦場では家康が秀吉軍の奇襲部隊を打ち破り見事な勝利を収めましたが、政治力・外交力で勝る秀吉が信雄を単独で降伏させたため、戦う理由を失った家康は撤退せざるを得なくなりました。結果的にこの戦いを経て家康は秀吉に臣従することになり、秀吉の天下統一が大きく前進する重要な転換点となりました。
1584年
10月3日
秀吉、従五位下・左近衛権少将に叙せられる。
官職
1584年
11月21日
秀吉、従三位・権大納言に叙せられる。
官職
1585年
秀吉「藤原」改姓
行事
秀吉が「平」の姓から「藤原」へ改姓する。これは一時期な改正であり、関白になるために近衛前久の養子となり、藤原氏へ改姓した。
1585年
和泉の戦い(和泉、現:大阪府岸和田市)
合戦
1585年
千石堀城の戦い(和泉国、現:大阪府貝塚市)
合戦
1585年
太田城水攻め(和泉国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1585年
第二次太田城の戦い(和泉国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1585年
丸山城の戦い(伊予国、現:愛媛県西条市)
合戦
1585年
天正の陣(伊予国)
合戦
1585年
薄葉ヶ原の戦い(下野国、現:栃木県矢板市)
合戦
1585年
関柴合戦(陸奥国、現:福島県)
合戦
1585年
河原山城の戦い(伯耆国、現:鳥取県)
合戦
1585年
第一次上田合戦(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1585年
富山の役(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1585年
粟ノ巣の変(陸奥国、現:福島県二本松市)
合戦
1585年
人取橋の戦い(陸奥国、現:福島県本宮市)
合戦
1585年
3月
1585年、天下統一を目指す羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、10万の大軍を率いて紀伊国(和歌山県)に攻め込み、独立勢力であった雑賀一揆(さいかいっき)や根来寺(ねごろじ)の僧兵たちを武力で完全に制圧した事件です(紀州征伐)。彼らは鉄砲を操る最強の傭兵集団として織田信長をも苦しめましたが、秀吉の周到な水攻めと兵糧攻めの前に屈服しました。この勝利により、近畿地方における秀吉の支配が揺るぎないものとなり、全国統一事業への決定的な契機となりました。
1585年
3月10日
秀吉、正二位・内大臣に叙せられる。
官職
1585年
6月
秀吉、四国平定(四国攻め)
行事
1585年
7月11日
1585年、豊臣秀吉が天皇を補佐する朝廷の最高職である関白(かんぱく)に任命された出来事です。これまで関白は、藤原氏などの一部のトップ貴族(公家)しかなれない特別な役職でした。しかし、農民出身の秀吉は巧みな交渉でこれを手に入れ、翌年には天皇から「豊臣」という新しい名字を与えられます。これにより、秀吉は単なる「強い武士」から「天皇の代理人」へと超絶クラスチェンジを果たしました。天皇の圧倒的な権威をバックにして全国の大名に命令を下せるようになり、天下統一に向けた最大の切り札を手に入れた歴史の重要ドミノです。
1585年
8月
富山の役
行事
羽柴秀吉が率いる70,000の大軍が佐々成政が立て籠もる越中国・富山城(現:富山県富山市)を包囲して、降伏させた戦い。
1585年
10月
1585年10月、関白となった豊臣秀吉が、九州地方の戦国大名たちに対して発布した「大名同士の私的な領土争い(私戦)を禁じる」という画期的な法令です。当時、九州統一を目前にしていた島津義久は、大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉のこの命令を無視して侵攻を続けました。秀吉はこれを国家の法律に対する反逆とみなし、圧倒的な武力で島津氏を討伐する九州平定へと乗り出します。武士の行動原理を「力」から「法」へと変える、歴史の決定的な分岐点となった法令です。
1586年
家康と秀吉の妹・朝日姫 結婚
他
秀吉の異父妹・朝日姫を家康の正室に迎える。後に朝日姫は駿河御前と呼ばれた。※秀吉の異父妹、同父妹については諸説あり
1586年
有屋峠の戦い(出羽国、現:秋田県湯沢市、山形県金山町)
合戦
1586年
豊薩合戦(九州地方)
合戦
1586年
勝尾城の戦い(肥前国、現:佐賀県鳥栖市)
合戦
1586年
鷹取城の戦い(肥前国、現:佐賀県鳥栖市)
合戦
1586年
岩屋城の戦い(筑前国、現:福岡県太宰府市)
合戦
1586年
立花山城の戦い(筑前国、現:福岡県新宮町)
合戦
1586年
高鳥居城の戦い(筑前国、現:福岡県須恵町)
合戦
1586年
香春岳城の戦い(豊前国、現:福岡県香春町)
合戦
1586年
駄原城の戦い(豊後国、現:大分県竹田市)
合戦
1586年
山野城の戦い(豊後国、現:大分県竹田市)
合戦
1586年
栂牟礼城の戦い(豊後国、現:大分県佐伯市)
合戦
1586年
7月
1586年から1587年にかけて、天下統一を目指す豊臣秀吉が、九州の覇者である島津氏を降伏させた戦いです。関白となった秀吉は、九州で領土を拡大する島津氏に停戦(惣無事令)を命じましたが、島津氏がこれを無視したため大軍を派遣しました。圧倒的な兵力と物量で島津氏を追い詰め、当主の島津義久を降伏させて九州平定を成し遂げます。この戦いの直後、秀吉はバテレン追放令を発布し、キリスト教の制限と長崎の直轄化を行いました。日本の天下統一に向けた歴史の決定的な契機となる戦いです。
1586年
9月9日
1586年、農民出身から天下人に上り詰めた豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から新しい姓(氏)である「豊臣」を授けられた歴史的な出来事です。源氏や平氏、藤原氏といった由緒ある古い家柄と肩を並べる「新しい名門」を自ら作り出しました。朝廷の最高職である関白や太政大臣への就任と合わせ、天皇の権威を背景にして全国の大名を従える豊臣政権の支配システムが完成した、歴史の決定的な分岐点です。
1586年
10月4日
家康、権中納言に叙せられる。
官職
1586年
10月26日
大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊する。
行事
1586年
10月27日
大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明する。
行事
1586年
11月5日
家康、正三位に叙せられる。
官職
1586年
12月4日
17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移る。
行事
1586年
12月19日
内大臣を辞職する。
行事
1586年
12月25日
朝廷の最高位「太政大臣」(だじょうだいじん)に就任
行事
1587年
新発田城の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1587年
堅田合戦(豊前国、現:大分県佐伯市)
合戦
1587年
鶴賀城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
戸次川の戦い(豊後国、大分県大分市)
合戦
1587年
府内城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
臼杵城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
鶴崎城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
日出生城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
阿気野の戦い(出羽国、現:秋田県横手市)
合戦
1587年
唐松野の戦い(出羽国、現:秋田県大仙市)
合戦
1587年
九州平定(九州地方)
合戦
1587年
梓越の戦い(豊後国、現:大分県、宮崎県)
合戦
1587年
岩石城の戦い(豊前国、現:福岡県田川郡添田町)
合戦
1587年
豊前の戦い(豊前国、現:福岡県朝倉市)
合戦
1587年
平佐城の戦い(薩摩国、現:鹿児島県薩摩川内市)
合戦
1587年
肥後国人一揆(肥後国、現:熊本県)
運動
1587年
豊前国人一揆(豊前国、現:福岡県、大分県)
運動
1587年
尾浦城の戦い(出羽国、現:山形県鶴岡市)
合戦
1587年
4月
1587年、関白となった豊臣秀吉が、九州をほぼ統一しつつあった強敵・島津氏(しまづし)を大軍で降伏させ、九州地方を完全に支配下に置いた出来事です。秀吉が全国の大名に出した「勝手に戦争をしてはいけない」という命令(惣無事令)を島津氏が無視したことがキッカケでした。この九州平定により、西日本は完全に秀吉のものとなり、天下統一は残すところ関東の北条氏と東北地方のみとなりました。また、この遠征中に秀吉がキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を出したことも、テストに出る超重要ポイントです。
1587年
5月9日
書状「かうらい国へ御人」
行事
1587年
6月1日
書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
行事
1587年
6月19日
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、突如としてキリスト教の宣教師(バテレン)に対して国外退去を命じた法令です。当初はキリスト教に寛容だった秀吉ですが、信者による神社仏閣の破壊や、日本人を奴隷として海外へ売る行為、さらには長崎が教会の領地になっている事実を知り、国家を脅かす存在として激しい危機感を抱きました。布教を禁じつつも南蛮貿易は奨励するという二面性を持ち、後の江戸幕府による完全な禁教令や鎖国政策へと繋がる、歴史の決定的な契機となった重要事件です。
1587年
8月8日
従二位権大納言。羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか?)
官職
1587年
9月
聚楽第へ転居
行事
聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として平安京大内裏跡(現:京都市上京区)に建設された。1586年2月に着工され、翌1587年9月に完成した。
1587年
11月1日
1587年(天正15年)、九州平定を果たした豊臣秀吉が、京都の北野天満宮で開催した前代未聞の大規模な茶会です。武士や公家だけでなく、農民や町人も身分を問わず参加を許され、釜がなければ鍋でも良いという自由な触れ書きが出されました。千利休ら名だたる茶人が集結し、秀吉の権力と富の象徴である黄金の茶室も披露され、総勢1000人以上が熱狂しました。10日間の予定がわずか1日で突然中止となる謎を残しましたが、茶の湯が広く庶民に浸透し、豊臣政権の文化的権威を確立する歴史の決定的な契機となりました。
1587年
12月
1587年、九州を平定した豊臣秀吉が、まだ服従していない関東地方と奥羽(東北)地方の大名たちに向けて発布した「大名同士の勝手な戦いを禁じる」という絶対的な命令です。これを惣無事令(そうぶじれい)と呼びます。領土問題は最高権力者である秀吉の裁判によって決めることを強制し、これに違反した者は国賊として討伐の対象とされました。この法令は、のちに北条氏を滅ぼす「小田原征伐」の法的な口実となり、秀吉の天下統一を仕上げる歴史の決定的な契機となりました。
1588年
1588年頃、織田信長の姪であり「浅井三姉妹」の長女である茶々(のちの淀殿)が、天下人・豊臣秀吉の側室(正室以外の妻)となった出来事です。茶々は、実の父(浅井長政)と養父(柴田勝家)の二人を秀吉の軍勢に滅ぼされるという過酷な運命をたどりました。しかし、親の仇である秀吉の妻となり、のちに跡継ぎである豊臣秀頼を出産したことで、豊臣政権の実権を握ることになります。彼女の数奇な人生と決断は、やがて豊臣家の滅亡(大坂の陣)へと直結する歴史の決定的な分岐点となりました。
1588年
聚楽第に後陽成天皇 行幸
行事
1588年
大崎合戦(陸奥国、現:宮城県加美町)
合戦
1588年
郡山合戦(陸奥国、現:福島県郡山市)
合戦
1588年
十五里ヶ原の戦い(出羽国、現:山形県鶴岡市)
合戦
1588年
1月13日
左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯を辞する。
官職
1588年
1月13日
足利義昭 室町幕府15代・征夷大将軍 退任
官職
1588年
7月8日
1588年、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、農民たちから刀や鉄砲などの武器を没収した法令です。これがテストに絶対出る刀狩令(かたながりれい)です。「武器を集めて京都に造る大仏の釘にするから、仏様の御利益があるぞ」という建前で、農民から反乱(一揆)の力を奪い取りました。太閤検地とセットで行われたこの政策により、戦う「武士」と農業をする「農民」の身分がハッキリと分かれる兵農分離(へいのうぶんり)が完成。江戸時代に続く平和な社会の土台を作る超特大ドミノとなりました。
1588年
7月8日
海賊停止令 発布
行事
1588年
8月12日
琉球王国(現:沖縄県)が豊臣秀吉の命で島津氏を介して、臣従を要求される。
行事
1588年
12月28日
左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任となる。
官職
1589年
第三次湊騒動(出羽国、現:秋田県大仙市)
運動
1589年
河原田城の戦い(佐渡国、現:新潟県佐渡市)
合戦
1589年
摺上原の戦い(陸奥国、現:福島県磐梯町・猪苗代町)
合戦
1589年
天正天草合戦(肥後国、現:熊本県)
合戦
1589年
仏木坂の戦い(肥後国、現:熊本県苓北町)
合戦
1589年
5月27日
秀吉の側室・淀殿(茶々)との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。
他
1590年
山中城の戦い(伊豆国、現:静岡県三島市)
合戦
1590年
松井田城の戦い(上野国、現:群馬県安中市)
合戦
1590年
忍城の戦い(武蔵国、現:埼玉県行田市)
合戦
1590年
八王子城の戦い(武蔵国、現:東京都八王子市)
合戦
1590年
奥州仕置(陸奥国)
合戦
1590年
仙北一揆(出羽国、現:秋田県)
運動
1590年
葛西大崎一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1590年
和賀・稗貫一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1590年
庄内藤島一揆(出羽国、現:山形県)
運動
1590年
2月
1590年、豊臣秀吉が関東の覇者・北条氏を滅ぼした戦国時代最後の大規模な戦いです。これを小田原征伐(おだわらせいばつ)と呼びます。大名同士の勝手な戦いを禁じた「惣無事令」を破った北条氏に対し、秀吉は全国の大名を動員して約21万人の超巨大な軍勢で難攻不落の小田原城(神奈川県)を完全に包囲しました。約5ヶ月の籠城戦の末に北条氏は降伏して滅亡。東北の伊達政宗らも服従したことで、100年以上続いた戦国時代が終わり、秀吉による天下統一が完全に達成された歴史の特大ドミノです。
1590年
2月
1590年、豊臣秀吉が関東の北条氏を滅ぼす「小田原征伐」を行い、東北地方の伊達政宗らを服従させたことで、ついに日本全国を支配下に置いた超重要イベントです。これにより、約100年以上続いた血みどろの戦国時代が終わりを告げました。天下統一を果たした秀吉は、農民から武器を取り上げる刀狩や、全国の土地を測量する太閤検地を行い、のちの江戸時代の基礎となる強力なシステムを作り上げます。日本の歴史が大きく次のステージへと進む歴史の最大級の転換点です。
1590年
7月
奥州仕置
行事
豊臣秀吉により東北大名に対する処分(改易、減俸)や諸政策を実施した。
1590年
8月1日
関東へ移封して、江戸城を居城とする。
行事
1590年
11月
朝鮮へ征明を告げ入朝を要求する。
行事
1591年
1591年、天下統一を果たした豊臣秀吉が発布した、武士・百姓・町人といった身分の移動や職業の変更を厳しく禁じた法令です。戦国時代は農民から武士へと身分を変えること(下剋上)が可能でしたが、この法令により「武士は武士、農民は農民」として職業と身分が固定されました。武士を城下町に集め、農民を土地に縛り付けることで、兵士と農民を明確に分ける兵農分離(へいのうぶんり)を完成させました。身分制度が固定化される江戸時代の盤石な社会構造の基礎を築き、歴史の決定的な分岐点となった法令です。
1591年
九戸政実の乱(陸奥国、現:青森県・岩手県)
合戦
1591年
九戸城の戦い(陸奥国、現:岩手県二戸市)
合戦
1591年
2月28日
1591年、豊臣秀吉の側近として絶大な権力を握り、「天下一の茶匠」と称された千利休(せんのりきゅう)が、秀吉の怒りを買って切腹を命じられた衝撃的な事件です。京都の大徳寺(だいとくじ)に自分の木像を置いたことや、茶器の高額売買の疑惑などが理由とされますが、真相は謎に包まれています。周囲が必死に謝罪を勧める中、利休は自らの美学と誇りを曲げることを頑なに拒み、故郷の堺で堂々と自刃しました。彼が完成させた侘び茶の精神は、のちの日本文化を決定づける歴史の重要な契機となりました。
1591年
3月3日
天正遣欧少年使節が京都・聚楽第において、秀吉に西洋音楽「千々の悲しみ・Mille regretz」(作曲:ジョスカン・デ・プレ)を演奏した。
行事
1591年
7月25日
ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求する。
行事
1591年
9月15日
スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属を要求する。
行事
1591年
10月14日
豊臣秀吉の命により、島津氏を介して琉球へ唐入り(朝鮮侵略)の軍役要求した。
行事
琉球の内部は島津氏の命令を拒んでは攻撃を受ける危機感から、結果的に軍役の半分を負担した。
1591年
12月
豊臣秀吉 関白を辞職する。
行事
関白の職を秀次に譲り、太閤(たいこう)になる。
1591年
12月
太政大臣如元(もとのごとし)。
行事
1592年
1592年(文禄元年)、天下を統一した豊臣秀吉の意向を受け、関白の豊臣秀次が全国の大名に向けて発布した身分統制の法令です。武士、農民、職人、商人といった職業を固定し、身分をまたいだ転職や移動を厳しく禁じました。また、全国規模で家ごとの人数や職業を細かく調査する「人別改(にんべつあらため)」を実施し、朝鮮出兵に向けた兵力や労働力を確実に把握しました。刀狩令や太閤検地とともに兵農分離(へいのうぶんり)を完成させ、江戸時代の強固な身分制度の端緒を開いた歴史の重要な転換点です。
1592年
梅北一揆(日向国、現:宮崎県)
運動
1592年
釜山鎮の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
多大鎮の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
東萊城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
尚州の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
忠州の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
玉浦海戦(朝鮮)
合戦
1592年
臨津江の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
大同江の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
第一次平壌城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
閑山島海戦(朝鮮)
合戦
1592年
海汀倉の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
釜山浦海戦(朝鮮)
合戦
1592年
第一次普州城攻防戦(朝鮮)
合戦
1592年
第二次平壌城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
4月13日
1592年(文禄元年)、天下統一を果たした豊臣秀吉が、明(中国)の征服を目標に大軍を朝鮮半島に派遣した歴史的事件です。これが1回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)です。当初は日本軍が連戦連勝で首都の漢城(ソウル)を占領しましたが、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍の活躍や、明からの援軍によって戦線は膠着状態に陥りました。翌年に休戦交渉が始まり一時的に戦闘は終結しますが、東アジアの国際関係に大きな爪痕を残し、豊臣政権衰退の端緒を開いた歴史の重要な分岐点です。
1592年
9月16日
豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
行事
1593年
幸州山城の戦い(朝鮮)
合戦
1593年
碧蹄館の戦い(朝鮮)
合戦
1593年
第二次普州城攻防戦(朝鮮)
合戦
1593年
8月
豊臣秀吉の本拠を伏見城に移す。
行事
1593年
8月29日
1593年、天下を統一した豊臣秀吉と、その側室である淀殿(茶々)の間に、待望の男の子である豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生しました。秀吉にとっては57歳という高齢で授かった奇跡的な我が子であり、その喜びは異常なほどでした。しかし、この誕生はすでに後継者に指名されていた甥の豊臣秀次との間に深い亀裂を生み、やがて豊臣政権を内部から崩壊させる歴史の決定的な契機となります。秀頼の誕生は、のちの「関ヶ原の戦い」から「大坂の陣」へと繋がる巨大な悲劇の幕開けでした。
1595年
7月
秀吉が豊臣秀次の関白、左大臣職を剥奪する。
行事
1595年
7月
1595年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、後継者として関白(かんぱく)の位を譲っていた甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を和歌山の高野山へ追放し、切腹させた大事件です。秀吉に待望の実子(秀頼)が生まれたことで、甥の存在が邪魔になったことが最大の原因とされています。さらに秀吉は、秀次の妻子や一族ら30名以上を京都の三条河原で公開処刑にしました。このあまりにも残酷な粛清劇は、多くの大名たちの心を豊臣家から離れさせ、のちの豊臣家滅亡へと繋がる「致命的なドミノの1枚目」となりました。
1595年
7月
聚楽第 取り壊し
行事
秀吉は秀次の邸宅となっていた聚楽第を謀反人の邸宅として取り壊した。聚楽第が存在したのは、わずか8年弱だった。
1596年
5月8日
家康、正二位内大臣に叙せられる。
官職
1596年
10月
1596年、スペインの巨大な船「サン=フェリペ号」が土佐国(現在の高知県)に漂着したことをキッカケに起きた国際トラブルです。船の乗組員が「スペインは宣教師を使ってキリスト教を広め、その後に軍隊を送って国を乗っ取るのだ」と豪語したという報告を受け、豊臣秀吉が激怒。それまで黙認されていたキリスト教への取り締まりが一気に厳しくなり、翌年の二十六聖人殉教(宣教師や信徒の処刑)という悲劇を引き起こす特大ドミノとなりました。
1597年
第一次蔚山城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
漆川梁海戦(朝鮮)
合戦
1597年
南原城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
黄石山城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
稷山の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
鳴梁海戦(朝鮮)
合戦
1597年
1月14日
1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が明(中国)との和平交渉決裂を理由に、再び14万の大軍を朝鮮半島へ派遣した歴史的事件です。これが2回目の朝鮮出兵である慶長の役(けいちょうのえき)です。前回と異なり防衛体制を整えていた明・朝鮮連合軍の激しい抵抗に遭い、日本軍は南部の城(倭城)に立てこもる泥沼の防衛戦を強いられました。翌1598年の秀吉の死によって全軍撤退となりますが、参戦した大名たちに甚大な被害と疲弊をもたらし、豊臣政権が崩壊へと向かう歴史の決定的な転換点となりました。
1598年
順天城の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
第二次蔚山城の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
泗川の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
露梁海戦(朝鮮)
合戦
1598年
8月18日
1598年、農民から天下人にまで登り詰めた豊臣秀吉が、伏見城(京都府)で病死した事件です。晩年の秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)による大名たちの疲弊や、幼い跡継ぎである豊臣秀頼への不安など、多くの問題を抱えたままこの世を去りました。絶対的な権力者であった秀吉の死は、豊臣政権内部の権力闘争を激化させ、やがて徳川家康が台頭して「関ヶ原の戦い」へと直結する歴史の決定的な転換点となりました。
1599年
庄内の乱(日向国、現:宮崎県)
合戦
1600年
会津征伐(東北地方)
合戦
1600年
伏見城の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1600年
田辺城の戦い(丹後国、現:京都府舞鶴市)
合戦
1600年
白石城の戦い(陸奥国、現:宮城県白石市)
合戦
1600年
大聖寺城の戦い(加賀国、現:石川県加賀市)
合戦
1600年
浅井畷の戦い(加賀国、現:石川県小松市)
合戦
1600年
木曽川・合渡川の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市・瑞穂市)
合戦
1600年
河田木曽川渡河の戦い(美濃国、現:岐阜県各務原市)
合戦
1600年
米野の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1600年
竹ヶ鼻城の戦い(美濃国、現:岐阜県羽島市)
合戦
1600年
岐阜城の戦い(美濃国、現:岐阜城岐阜市)
合戦
1600年
上野城の戦い(伊賀国、現:三重県伊賀市)
合戦
1600年
安濃津城の戦い(伊勢国、現:三重県津市)
合戦
1600年
大聖寺城の戦い(加賀国、現:石川県加賀市)
合戦
1600年
八幡城の合戦(美濃国、現:岐阜県郡上市)
合戦
1600年
第二次上田合戦(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1600年
大津城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1600年
慶長出羽合戦(出羽国、現:山形県)
合戦
1600年
長谷堂城の戦い(出羽国、現:山形県山形市)
合戦
1600年
上杉遺民一揆(越後国、現:新潟県)
運動
1600年
石垣原の戦い(豊後国、現:大分県別府市)
合戦
1600年
佐賀関の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1600年
杭瀬川の戦い(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1600年
大垣城の戦い(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1600年
岩崎一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1600年
花巻城の夜討ち(陸奥国、現:岩手県花巻市)
合戦
1600年
岩崎城の戦い(陸奥国、現:岩手県北上市)
合戦
1600年
佐和山城の戦い(近江国、現:滋賀県彦根市)
合戦
1600年
鳥羽城の戦い(志摩国、現:三重県鳥羽市)
合戦
1600年
三津浜夜襲(伊予国、現:愛媛県松山市)
合戦
1600年
7月11日
石田三成は打倒・家康を掲げて、越前国・敦賀城主 大谷吉継の援助を得て、毛利輝元を総大将として挙兵する。
行事
1600年
9月15日
1600年9月15日、美濃国(岐阜県)の関ヶ原を舞台に、豊臣家を守ろうとする石田三成率いる西軍と、天下取りを狙う徳川家康率いる東軍が激突した日本史上最大の大戦争です。「天下分け目の戦い」と呼ばれ、約15万人の大軍が真っ二つに分かれて激突しました。家康の巧みな事前工作により、西軍の小早川秀秋らが戦いの最中に寝返ったことで、拮抗していた戦況は一変。なんとわずか6時間というスピードで東軍が圧勝しました。この勝利によって家康の覇権は決定的なものとなり、3年後の江戸幕府誕生へと繋がっていく超重要な転換点です。
1600年
10月1日
家康は、関ヵ原の西軍側で敗戦した石田三成、小西行長(こにしゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)たちは、京都六条河原で斬首され、三条橋で梟首となる。
行事
1600年
10月10日
防長減封
政治
関ヵ原の戦い(せきがはらのたたかい)の敗戦処理として、西軍総大将・毛利輝元は山陽・山陰の8ヵ国(120万石)から周防・長門の2か国(約30万石)へ移封、大幅な減封に処した。
1601年
松川の戦い(陸奥国、現:福島県福島市)
合戦
1601年
家康 東海道に宿駅伝馬制度(てんませいど)を設ける。
行事
1601年
8月24日
会津藩・上杉景勝は直江兼続とともに上洛して家康に謝罪するが、家康は許したが関ヵ原の西軍側・敗戦処理として、上杉景勝を会津(約120万石)から米沢(約30万石)へ移封、大幅な減封に処した。
行事
1602年
稲津の乱(日向国、現:宮崎県)
合戦
1602年
1月6日
家康、従一位に叙せられる。
官職
1603年
2月12日
家康、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
官職