本能寺の変で織田信長とその長男(信忠)が亡くなると、巨大な織田帝国の「次の社長(跡継ぎ)を誰にするか?」という大問題が発生しました。そこで1582年6月、織田家の重役である4人の武将(柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)が、尾張国の清洲城(現在の愛知県清須市)に集まって緊急のトップ会談を開きました。関東で北条氏に敗れて逃亡中だった滝川一益が欠席する中、歴史のターニングポイントとなる清洲会議が幕を開けたのです。
会議の中心は、織田家で一番の古株であり筆頭家老の柴田勝家と、信長の仇・明智光秀をものすごいスピードで討ち取って(山崎の戦い)発言権を爆発的に高めていた羽柴秀吉の2人でした。勝家は信長の三男(織田信孝)を跡継ぎに推しましたが、農民出身の秀吉が自分より偉くなるのが絶対に許せませんでした。一方の秀吉は、亡くなった長男の子供で、まだわずか3歳の幼児である三法師(さんぼうし)を推薦し、真っ向から対立します。
「わずか3歳の幼児に、この激動の戦国時代で織田家のトップが務まるわけがない!」と激しく反対する勝家に対し、秀吉は「信長様の正式な血筋(長男の家系)を真っ直ぐ受け継ぐのは三法師様しかいません!」と正論で言い負かします。さらに秀吉は、会議の前に他の出席者である丹羽長秀や池田恒興に対して「三法師様を推してくれたら、あとで良い領地をあげるよ」と、水面下で周到な根回し(事前交渉)を行って、完全に味方につけていたのです。
会議のクライマックス、秀吉はちょこんと座る幼い三法師をヒョイと抱きかかえて大広間に現れました。信長の正当な孫を抱く秀吉の前に、勝家を含めた家臣たちはひれ伏すしかありませんでした。完全に主導権を握った秀吉は、自分の意見を強引に押し通して三法師を跡継ぎに決定させます。さらに領地の再配分でも秀吉がちゃっかり一番おいしい領地(京都周辺や河内国など)をゲットし、勝家との差を決定的に広げました。
この清洲会議での大勝利により、羽柴秀吉は事実上、織田家を操るナンバーワンの実力者となりました。会議の結果に全く納得できない勝家は、信長の妹である絶世の美女・お市の方と結婚して秀吉に対抗しようとしますが、両者の関係は完全に冷え切って修復不可能になります。そして翌年、ついに両者は「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で激突し、勝利した秀吉が天下人への階段を一気に駆け上がっていくのです。