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鎖国令(第4次) さこくれい(だいよじ) 政治

🕒 1636年5月
📍 場所: 長崎県 長崎(出島など) 👤 関連: 徳川家光
1636年(寛永13年)、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が発布した、外国人に対する厳しい管理政策です。貿易に直接関係のないポルトガル人や、日本人の妻、その間に生まれた混血の子どもたち計287人を、容赦なくマカオ(中国)へと永久追放しました。さらに、日本に残ることを許された一部のポルトガル人貿易商たちも、長崎に新しく建設された人工の島・出島(でじま)に強制的に収容・隔離しました。キリスト教の排除と貿易の独占を物理的に徹底し、鎖国の完成へと向かう歴史の決定的な契機となった法令です。
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幕府の強まる警戒心

前年の第3次鎖国令によって日本人の海外渡航を完全に禁じた第3代将軍・徳川家光は、次なる標的を「日本国内にいる外国人」へと向けました。当時、幕府が最も恐れていたのは、外国の進んだ武器やキリスト教の教えが国内に広がり、幕府への反乱に繋がることでした。特に、貿易に乗じて密かに宣教師を日本へ送り込んでいたポルトガル人に対する警戒感はピークに達しており、彼らをどう管理するかが幕府の最大の課題となっていたのです。
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宣教師の潜伏と密貿易

それまでポルトガル人たちは、貿易港である長崎の町中に自由に住み、日本人の家を借りて生活していました。日本人の女性と結婚して家庭を築く者も多く、現地の人々と深く結びついていたのです。しかし幕府からすれば、この自由な交流こそがキリスト教が密かに広まる最大の原因でした。貿易による利益は欲しいものの、宗教による思想の広がりは絶対に防がなければならない。幕府はこの矛盾を解決するための強硬手段に打って出ます。
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悲劇の追放命令

1636年(寛永13年)、幕府は「第4次鎖国令」を発布し、非情な命令を下しました。それは、直接貿易に関係のないポルトガル人と、その家族たちを日本からマカオ(中国)へと永久追放するというものです。驚くべきは、ポルトガル人の夫を持つ「日本人の妻」や、その間に生まれた「日本人の血を引く混血の子どもたち」までもが、異国の血が混ざっているというだけの理由で、強制的な追放の対象とされてしまったことです。
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引き裂かれる家族たち

この法令により、長崎の町では悲痛な叫びが響き渡りました。合計287人もの罪のない女性や子どもたちが、愛する故郷や親族から無理やり引き離され、見知らぬ異国の地であるマカオへと追放されたのです。船が出航する際、岸壁では見送る人々と船上の家族が泣き叫び、手を振り合いながら永遠の別れを惜しみました。幕府の厳しい方針のもと、国境や宗教の壁が、罪のない多くの人々の温かい家庭を無残に引き裂いてしまった悲劇の瞬間でした。
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「ジャガタラ文」の深い悲哀

マカオやジャカルタなどへ追放された人々は、二度と日本の土を踏むことは許されませんでした。後に彼らが故郷の親戚や友人に宛てて書いた手紙は「ジャガタラ文」と呼ばれ現代にも残されています。「日本が恋しい」「一目でもいいから帰りたい」と、たどたどしい日本語で綴られた涙に濡れた手紙は、国家の巨大な方針転換に翻弄された人々の深い悲哀を伝えています。歴史の大きな波は、常にこうした名もなき人々の犠牲の上に成り立っているのです。
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巨大プロジェクト「出島」の建設

一方で幕府は、日本に残ることを許された一部のポルトガル貿易商人たちに対して、巨大な隔離施設の建設を命じました。長崎の有力な商人たちにお金を出させて、海の一部を埋め立てて扇の形をした人工の島を作らせたのです。これが歴史のテストで超重要な出島(でじま)です。幕府は莫大な費用と時間をかけて、外国人と日本人を物理的に完全に切り離すための、世界にも類を見ない巨大な専用の収容施設を完成させました。
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出島への完全なる隔離

完成した出島に、残りのポルトガル人たちは強制的に収容されました。広さはわずか東京ドームの約3分の1程度。陸地とは一本の橋だけで繋がっており、その入り口には厳重な門と番所が設けられました。原則として、日本人が出島に入ることや、ポルトガル人が長崎の町へ外出することは固く禁じられました。彼らはこの狭い人工島の中に完全に隔離され、厳重な監視の下でしか日本と貿易を行うことができなくなってしまったのです。
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徹底したキリスト教排除の壁

この出島への隔離政策により、幕府の最大の目的であったキリスト教の完全排除は劇的な効果を上げました。宣教師がポルトガル商人に紛れて日本へ密入国するルートは物理的に完全に断たれ、キリスト教のアイテムが日本国内に持ち込まれることも不可能になったのです。日本人の精神を外国の宗教から切り離し、幕府を中心とする絶対的な身分制度と支配体制を守り抜くための、完璧な防波壁が長崎の海に築き上げられました。
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貿易体制の幕府による独占

さらに幕府にとって、外国人を出島という一つの狭い場所に押し込めることは、貿易の面でも極めて好都合でした。長崎の港でのやり取りを幕府の役人が直接監視し、コントロールできるようになったからです。これにより、西日本の大名たちが勝手に外国と取引をして富を蓄える密貿易を徹底的に防ぎ、海外から得られる莫大な利益と最新情報を、幕府だけが独占して吸い上げる強固な経済システムが完成しました。
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鎖国完成へのカウントダウン

この第4次鎖国令と出島の完成によって、日本の対外政策の基本構造はほぼ出来上がりました。そして翌年の1637年、厳しい年貢とキリスト教弾圧に苦しむ民衆が起こした「島原・天草一揆」をキッカケに、幕府はさらに警戒を強め、1639年にはポルトガル船の来航自体を全面的に禁止(第5次鎖国令)します。1636年のこの法令は、約200年続く強固な鎖国体制へと向かう、歴史の決定的な転換点となった極めて重要な政策なのです。
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