1864年、京都の政治から追放されていた長州藩(山口県)が、天皇に無実を訴え、実権を握る会津藩や薩摩藩を排除するために軍勢を率いて京都へ進軍し、武力衝突を起こした事件です。京都御所の門である蛤御門(はまぐりごもん)周辺で激しい市街戦が繰り広げられたため、蛤御門の変とも呼ばれます。長州藩は敗北した上に、天皇の御所に向かって発砲したとして「朝敵(天皇の敵)」の烙印を押されました。この事件は、長州藩を滅亡の危機に追い込む第一次長州征討の引き金となり、幕末の動乱をさらに激化させる歴史の決定的な分岐点となりました。
1863年の八月十八日の政変により、急進的に「天皇を敬い外国を打ち払え」と主張していた長州藩(山口県)は、京都の政治の表舞台から突然追放されてしまいました。代わって京都の実権を握ったのは、幕府側である会津藩や薩摩藩です。長州の武士たちは「俺たちこそが天皇を一番思っているのに、なぜ追い出されなければならないんだ!」と強い不満と屈辱を抱き、いつか京都の権力を奪い返してやると復讐の炎を静かに燃やし続けていました。
そんな長州藩の怒りに油を注いだのが、1864年に起きた池田屋事件(いけだやじけん)です。京都に潜伏していた長州藩の志士たちが、幕府の警察組織である新選組(しんせんぐみ)に突然襲撃され、多くの優秀な若者が命を落としました。この悲惨なニュースが長州に伝わると、藩内は怒りの声で爆発し、「今すぐ京都へ攻め上り、仲間の仇を討って殿様の無実を天皇に訴えよう!」という強硬派の意見が完全に藩を支配することになりました。
高杉晋作や桂小五郎といった冷静なリーダーたちが「今はまだ幕府と戦う準備ができていない」と必死に止めたにもかかわらず、怒り狂った久坂玄瑞(くさかげんずい)や来島又兵衛(きじままたべえ)ら強硬派の武士たちは暴走を止められませんでした。彼らは藩の上層部の制止を振り切り、軍勢を率いて次々と京都へと進軍を開始します。その最大の目的は、自分たちを京都から追い出した憎き京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)を排除することでした。
1864年夏、京都周辺に集結した長州藩の軍勢は約3000人。彼らは「天皇の誤解を解き、再び長州を頼ってもらうのだ」という名目で、天皇が住む京都御所を目指して進軍を開始します。しかし、御所を守っていたのは、松平容保率いる会津藩の精鋭部隊や、かつて共に天皇を尊んでいたはずの薩摩藩の軍勢でした。長州藩は天皇に近づくため、皮肉にも天皇を守る幕府軍や薩摩軍と真っ向から武力で衝突することになってしまったのです。
8月20日(旧暦7月19日)の早朝、京都御所の門の一つである蛤御門(はまぐりごもん)周辺で激しい市街戦が始まりました。これが歴史のテストに出る禁門の変(きんもんのへん)です。長州軍の来島又兵衛は自ら槍を振るって敵陣に突撃し、会津軍を相手に鬼神のような奮戦を見せました。激しい銃砲撃の音が御所の周辺に響き渡り、平和な京都の中心部は、瞬く間に血で血を洗う地獄の戦場へと姿を変えていきました。
序盤は長州藩が優勢に戦いを進め、あわや会津藩の本陣を突破するかというところまで迫りました。しかし、そこに薩摩藩の強力な援軍が駆けつけます。この薩摩軍を指揮していたのが、のちに明治維新の英雄となる西郷隆盛(さいごうたかもり)です。最新式の銃と大砲を装備した薩摩軍の猛攻の前に、来島又兵衛が銃弾を浴びて壮絶な戦死を遂げます。これを機に戦況は一気に逆転し、長州軍は総崩れとなって後退を余儀なくされました。
蛤御門での敗北を知った長州藩の若きリーダー・久坂玄瑞は、天皇に直接思いを伝える最後の望みをかけ、御所のすぐそばにある公家(鷹司家)の屋敷に立て籠もりました。しかし、圧倒的な数の幕府軍に完全に包囲され、屋敷に火を放たれてしまいます。もはや脱出も直訴も不可能だと悟った久坂は、「これまでか」と燃え盛る炎の中で無念の自刃(切腹)を遂げました。優れた才能を持った多くの若き志士たちが、この戦いで命を散らしていったのです。
禁門の変の戦いで大砲や鉄砲が撃ち合われた結果、火の粉が京都市中の家々に飛び火し、大火災が発生しました。折からの強風に煽られた炎は三日三晩にわたって燃え続け、京都の町の約半分にあたる約3万戸の家屋や歴史ある寺社が灰になってしまいました。これを「どんどん焼け」と呼びます。自分たちの政治的な都合で京都を火の海にし、多くの市民の生活を奪ってしまった長州藩に対し、民衆の激しい怒りと非難が集中することになりました。
この戦いが長州藩に与えた最大のダメージは、武力的な敗北だけではありませんでした。戦いの最中、長州軍が撃った弾が天皇の住む御所の中に着弾してしまったのです。天皇を誰よりも尊敬していると主張していた長州藩が、結果的に天皇に向かって発砲したという事実は言い逃れができません。これにより、長州藩は「天皇に刃を向けた朝敵(国賊)」という最悪の烙印を押され、日本中から完全に孤立する絶体絶命の窮地に追い込まれました。
朝敵となった長州藩に対し、幕府は全国の大名に命令を下し、長州を完全に潰すための第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)を開始します。さらに外国艦隊からも攻撃を受けるなど、長州藩は完全に滅亡の危機に直面しました。しかし、この絶望的なドン底の状況から高杉晋作らが奇跡的なクーデターを起こし、のちに昨日の敵であった薩摩藩と手を結ぶという、歴史の決定的な分岐点(薩長同盟)へと繋がっていく試練の戦いだったのです。