戦国時代を代表する最強の武将、甲斐国(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と、越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)。「甲斐の虎」と「越後の龍」と呼ばれた二人の天才戦術家が、お互いのプライドと領地を懸けて合計5回も激突したのが川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)です。その中でも、1561年に行われた「第四次」の戦いは、両軍合わせて数万人以上がぶつかり合い、約8千人もの死傷者を出した戦国時代最大級の激戦となりました。
なぜ二人は「川中島」で何度も戦ったのでしょうか?川中島は信濃国(長野県)の北部、犀川と千曲川が合流する交通の要所で、お米がたくさんとれる豊かな土地でした。信濃を支配して領土を広げたい信玄に対し、信濃を追われた武将たちから「助けてくれ!」と頼まれた正義感の強い謙信が立ち上がったのがキッカケです。川中島はお互いの領土の境界線であり、絶対にゆずれない「天下分け目の国境地帯」だったのです。
1561年8月、謙信は約1万3千の兵を率いて川中島にやってきて、妻女山(さいじょざん)という山の上に陣を張りました。これに対し、信玄は約2万の大軍で出陣し、近くの海津城(かいづじょう)に入ります。両軍はすぐ近くにいるのにお互いに手を出さず、なんと約20日間も不気味な「にらみ合い」が続きました。先に動けば不利になると分かっていたため、両雄は息をひそめて相手の隙を伺う、ヒリヒリするような心理戦を展開していたのです。
にらみ合いが続く中、武田軍の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)らが「啄木鳥(きつつき)の戦法」という恐ろしい作戦を信玄に提案します。夜の間に別動隊が妻女山の裏側へこっそり登り、朝になったら謙信の軍に奇襲をかけるという作戦です。驚いて山を下りてきた謙信軍を、待ち構えていた信玄の本隊と別動隊で挟み撃ちにして全滅させるという、まさに木をつつくキツツキのような完璧な挟撃プランでした。
しかし、上杉謙信の勘の鋭さは人間離れしていました。海津城から立ち上る「炊飯の煙」がいつもより多いことを見て、「信玄が今夜、大規模な作戦を仕掛けてくる!」と一瞬で作戦を見破ったのです。謙信は夜の闇に紛れて音を立てずに妻女山を下りました。そして翌朝、霧が晴れると、信玄の本隊の目の前に、いるはずのない上杉軍が「車懸りの陣(くるまがかりのじん)」という恐ろしい突撃陣形で立ちはだかっていたのです!
「なぜ上杉軍がここにいる!?」武田軍が大パニックに陥る中、謙信軍の猛烈な突撃が始まりました。上杉軍の「車懸りの陣」は、部隊が車輪のように次々と入れ替わって波状攻撃を仕掛ける必殺陣形でした。信玄の本隊8千に対し、謙信軍は1万3千。圧倒的な数と勢いに押し込まれた武田軍は、信玄の弟である武田信繁や、作戦を失敗した責任を感じて突撃した山本勘助ら、重要武将たちが次々と討ち死にしていく大ピンチを迎えます。
この大混戦の中、戦国時代の伝説となる「一騎打ち」が起こります。白頭巾を被った上杉謙信が、たった一人で馬に乗って信玄の本陣に突入!床几(イス)に座っていた武田信玄に向かって、鋭い太刀で三度も斬りかかりました。信玄は立ち上がる暇もなく、手に持っていた軍配(鉄の団扇)でこれを間一髪で受け止めます。軍配には刀の傷が7つも残っていたと言われており、最強のライバル同士が直接刃を交えた歴史上最も有名な名シーンです。
信玄が絶体絶命のピンチを迎えていた頃、妻女山に向かっていた武田軍の別動隊1万2千は「もぬけの殻」の陣地を見て大慌てで山を下り、八幡原へ猛ダッシュで引き返していました。そして昼頃、ついに別動隊が戦場に到着し、上杉軍の背後から猛烈な勢いで襲いかかりました。作戦通りとはいきませんでしたが、結果的に上杉軍を「挟み撃ち」にすることに成功。今度は上杉軍が不利となり、両軍ともに陣形を崩して退却していきました。
戦いは半日で終わりましたが、両軍合わせて死傷者は約8千人にのぼったと言われています。武田軍は弟の信繁をはじめ多くの名将を失う大打撃を受けましたが、領土を守り抜いたため「戦術的には引き分け、戦略的には信玄の勝利」とも言われます。どちらも「自分が勝った!」と主張していますが、戦国最強を誇る二つの軍団が正面から激突し、お互いに致命傷に近いダメージを負いながらも完全な決着がつかなかった、文字通りの「死闘」でした。
この川中島の戦いはテストにも必ず出る超有名な合戦ですが、歴史全体で見ると大きな「ドミノ」を生み出しました。信玄と謙信という当時のツートップが約12年間も川中島で泥沼の戦いを繰り広げ、お互いに兵力と時間を消耗しすぎたのです。その結果、彼らが京都へ上って天下を取るのが遅れ、その隙に尾張(愛知県)の若き武将・織田信長が急成長し、天下統一へ名乗りを上げることになります。最強同士の足の引っ張り合いが、信長にチャンスを与える伏線となったのです。