桓武天皇は、奈良の平城京で政治に口出しして強くなりすぎた仏教勢力や、古い貴族たちの影響力から逃れるため、新しい都を造ることを決意しました。784年、天皇は現在の京都府向日市や長岡京市にあたる場所へ都を移します。これが長岡京(ながおかきょう)です。新しい水路を切り拓き、天皇を中心とした強力な政治体制を再出発させるための壮大な国家プロジェクトが始まりました。この新都の建設は、日本の政治を立て直す重要な挑戦となるはずでした。
この長岡京造営の最高責任者に大抜擢されたのが、桓武天皇からの絶大な信頼を集めていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)です。種継は天皇の母方の親戚にあたり、非常に有能で実行力のある官僚でした。彼は持ち前のリーダーシップで、莫大な費用と労働力がかかる都の建設を昼夜を問わず猛烈なスピードで推し進めました。天皇の権威を背景に権力を一手に握る種継の存在は、古い貴族たちにとって次第に目障りなものになりつつありました。
種継が権力を独占し、新しい都の建設を強引に進めることに対して、朝廷内には強い不満のマグマが溜まっていきました。特に激しく反発したのが、古くから天皇に軍事面で仕えてきた名門の大伴氏(おおともし)や佐伯氏(さえきし)といった氏族です。彼らは新しい政治体制の中で自分たちの立場がどんどん弱くなっていくことに焦りを感じており、「種継さえいなくなれば、再び自分たちの時代が来るはずだ」と危険な陰謀を企て始めました。
785年(延暦4年)9月23日の夜、事件は起こります。完成間近の長岡京で、建設現場の視察を終えた藤原種継が、暗闇の中から突然放たれた矢によって射抜かれました。胸に致命傷を負った種継は、翌日帰らぬ人となります。これが歴史のテストでも重要な藤原種継暗殺事件(ふじわらのたねつぐあんさつじけん)です。天皇の最も信頼する右腕が新都の中心で暗殺されたという事実は、朝廷に前代未聞の激震を走らせました。
知らせを受けた桓武天皇は烈火のごとく激怒し、徹底的な犯人探しを命じました。厳しい捜査の結果、大伴継人(おおとものつぐひと)や大伴竹良(たけら)の兄弟、佐伯氏などの名門貴族十数名が実行犯として次々と捕らえられます。天皇の怒りは凄まじく、彼らは十分な裁判も行われないまま、即日斬首という極めて重い刑に処されました。しかし、天皇の厳しい追及は実行犯だけでは終わらず、事件の「本当の黒幕」へと向けられていったのです。
捕らえられた犯人たちの背後にいる黒幕として、なんと桓武天皇の実の弟であり、次の天皇となる約束がされていた皇太弟の早良親王(さわらしんのう)の名前が浮上しました。早良親王は以前から長岡京の造営に反対する大伴氏らと親しくしており、種継とも政治的に対立していたのです。「まさか実の弟が私を裏切ったのか」。権力を脅かされることを極度に恐れていた桓武天皇は、早良親王を直ちに逮捕し、お寺に幽閉して厳しい尋問を行いました。
幽閉された早良親王は、「私は絶対に種継暗殺に関与していない!」と身の潔白を涙ながらに訴えました。しかし、兄である天皇はその言葉に一切耳を貸そうとしませんでした。絶望した親王は、自らの無実を証明するために一切の飲食を拒否する「絶食」という壮絶な抗議に出ます。そのまま淡路島への配流(追放)が決まり、護送される途中で親王は無念のまま餓死してしまいました。この悲惨な死が、やがて天皇を果てしない恐怖へと陥れます。
早良親王の死後、桓武天皇の周囲で信じられないような不幸が連続して起こり始めます。天皇の母が亡くなり、皇后が病に倒れ、さらに天皇の息子たちも次々と謎の死を遂げたのです。それだけではありません。全国的に疫病が大流行し、洪水や日照りといった自然災害が日本中を襲いました。「これは無実の罪で死んだ早良親王の怨霊(おんりょう)の仕業に違いない」。都の人々は震え上がり、天皇自身も恐怖で夜も眠れなくなってしまいました。
どんなにお祓いをしても不幸は収まらず、長岡京は怨霊の呪いに包まれた「呪われた都」として恐れられるようになりました。精神的に限界を迎えた桓武天皇に対し、側近の和気清麻呂(わけのきよまろ)が進言します。「この長岡京を捨て、新しい都を造って怨霊から逃れましょう」。莫大な費用と10年もの歳月をかけて造り上げた長岡京を放棄するということは、天皇にとって大きな挫折でしたが、もはやそれ以外に国を救う道は残されていませんでした。
794年、桓武天皇は怨霊の恐怖から逃れ、心機一転を図るために再び都を移しました。これが、1000年以上にわたって日本の首都となる平安京(へいあんきょう:現在の京都市)です。藤原種継の暗殺という一つの事件が、早良親王の悲劇を生み、最終的に長岡京を廃都へと追い込みました。この暗殺事件は、単なる貴族の権力闘争にとどまらず、日本の都が京都に定まり、華やかな平安時代が幕を開ける歴史の分岐点となった出来事なのです。