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平安時代(後期) へいあんじだい(こうき)

🕒 1068年 〜 1185年
👤 関連: 白河上皇,後白河上皇,平清盛,源頼朝,源義経
1068年の後三条天皇の即位から始まり、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するまでの平安時代後半の約100年間。長らく続いた藤原氏の摂関政治が終わり、上皇が政治を行う院政(いんせい)が始まりました。朝廷内の権力争いである保元の乱・平治の乱を経て、武士が政治の実権を握るようになります。平清盛が武士として初めて太政大臣となり平氏政権を築いて我が世の春を謳歌しますが、やがて反発を招き、源頼朝らの挙兵によって平氏は滅亡。貴族の時代から武士の時代へと完全に切り替わる、激動と戦乱の歴史的転換期です。
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摂関政治の終わりと力強い天皇

1068年、約170年ぶりに藤原氏をおじいちゃん(外戚)に持たない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位しました。「藤原氏の言いなりにはならないぞ!」と、記録のない不正な私有地(荘園)を没収する「延久の荘園整理令」を出し、天皇中心の力強い政治を復活させます。これにより、長年続いた藤原氏による摂関政治はついに終わりを告げました。天皇の権力が回復したことで、歴史の歯車は「貴族の時代」から次の激動のフェーズへと大きく動き出すことになります。
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「上皇」がルールブック!院政の始まり

後三条天皇の息子である白河天皇(しらかわてんのう)は、さらに画期的なシステムを考え出しました。天皇の位を幼い息子に譲って自分は「上皇」となり、天皇の親(治天の君)という絶対的な立場で、天皇の住まいとは別の「院」から政治を操り始めたのです!これを院政(いんせい)と呼びます。上皇の命令は「院宣(いんぜん)」と呼ばれて絶大なパワーを持ち、白河、鳥羽、後白河の3人の上皇によって約100年間も専制的な政治が続きました。
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上皇の強力なボディーガード「北面の武士」

権力を握った上皇たちですが、自分たちの命令を聞かないお寺の武装集団(僧兵)のデモ行進(強訴)には頭を悩ませていました。そこで白河上皇は、自分の御所(院)の北側を警備させるために、強くて頼りになる武士たちをボディーガードとして雇い入れます。これを北面の武士(ほくめんのぶし)と呼びます。ここに選ばれることは武士にとって大変な名誉であり、特に源氏や平氏のエリート武士たちは、朝廷の用心棒として中央の政治へと深く食い込んでいくことになります。
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血で血を洗う身内ゲンカ「保元の乱」

1156年、朝廷内でトップ争いが爆発します!崇徳上皇と後白河天皇という兄弟ゲンカに、藤原氏の兄弟ゲンカが合体。双方が源氏と平氏の武士たちを味方につけて武力衝突した保元の乱(ほうげんのらん)です。この戦いでは、後白河天皇側についた平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)の活躍で天皇側が勝利。これまで政治の蚊帳の外だった武士が、「国のトップ争いを武力で解決した」ことで、武士の存在感が日本中で一気に爆上がりしました!
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ライバル激突!源氏vs平氏「平治の乱」

保元の乱で共に戦った平清盛と源義朝ですが、「俺の方が恩賞が少ない!」と義朝が不満を爆発させます。1159年、清盛が都を留守にした隙を狙って義朝がクーデターを起こしました。これが平治の乱(へいじのらん)です。しかし、清盛は冷静に都に戻り、巧みな作戦で義朝軍を撃破!敗れた義朝は殺され、その息子である13歳の源頼朝(みなもとのよりとも)は伊豆(静岡県)へ島流しにされました。最大のライバル・源氏を倒した清盛は、武士の頂点に君臨します。
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武士から初のトップへ!清盛の栄華

ライバルがいなくなった平清盛は、後白河上皇の厚い信頼を得て異例の大出世を遂げます。1167年、清盛は武士として初めて、政治の最高職である太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されました!さらに、かつての藤原氏と同じように、自分の娘を天皇のお妃にして、産まれた孫を天皇(安徳天皇)にするという外戚作戦を大成功させます。軍事力だけでなく政治の実権も完全に掌握し、日本初の武士による政権「平氏政権」を打ち立てたのです。
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お金で国を動かす!日宋貿易

清盛の凄さは、武力や政治力だけではありません。「これからは貿易でお金を稼ぐ時代だ!」といち早く目をつけ、中国の「宋(そう)」という国と積極的に日宋貿易(にっそうぼうえき)を行いました。巨大な貿易船が安全に寄港できるように、現在の神戸港にあたる大輪田泊(おおわだのとまり)という港を大改修。中国から大量の銅銭(宋銭)や陶磁器を輸入し、日本からは砂金や刀などを輸出して、平氏は想像を絶する莫大な財力(経済力)を手に入れました。
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「平家にあらずんば人にあらず」

政治のトップに立ち、莫大なお金を手に入れた平氏一族は、都で我が世の春を謳歌します。一族の者が重要な役職を独占し、全国の広大な土地(荘園)を支配下に置きました。清盛の義理の弟が「平家にあらずんば人にあらず(平家一族でなければ人間ではない)」と豪語したという伝説が残るほど、その権力は絶頂を極めました。しかし、あまりにもやりたい放題の平氏に対して、上皇や貴族、地方の武士たちの不満はマグマのように溜まっていったのです。
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頼朝の決起!源平合戦の始まり

1180年、ついに後白河上皇の息子(以仁王)が「生意気な平氏を倒せ!」という命令(令旨)を全国に出します。これに応えて立ち上がったのが、20年間も伊豆で流人生活を送っていた源頼朝です!さらに木曽義仲なども挙兵し、全国各地で平氏を倒すための大戦争(治承・寿永の乱=源平合戦)が勃発しました。翌年、絶対的リーダーだった清盛が熱病で亡くなると、平氏は頼朝の弟である天才武将・源義経(みなもとのよしつね)の奇襲攻撃によって、西へ西へと追い詰められていきます。
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壇ノ浦に沈む栄華と新たな時代

1185年、本州の西の果て、現在の山口県にある海峡で最終決戦が行われました。これが壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)です。激しい海戦の末、源義経の率いる源氏軍が勝利。追い詰められた平氏一族は、幼い安徳天皇と共に次々と海へ飛び込み、華麗なる平氏はついに滅亡しました。貴族の真似をして権力を握った平氏の時代が終わり、東国に武士の都を作った源頼朝による、真の武士の時代「鎌倉時代」へと歴史は大きく転換していくのです。
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