天下統一を成し遂げた豊臣秀吉でしたが、晩年は老いと病に苦しむようになります。かつての明るく機転の利く姿は影を潜め、感情の起伏が激しくなっていました。特に、無理な海外出兵である文禄・慶長の役が泥沼化し、兵士や大名たちが疲弊していく中、秀吉の体調は1598年の春頃から急激に悪化し始めます。絶対的な権力者の衰えは、豊臣政権の未来に暗い影を落としていました。
病床の秀吉が何よりも心を痛めていたのは、わずか5歳の幼い跡継ぎ・豊臣秀頼(とよとみひでより)の未来でした。自分が死んだ後、この幼い我が子が他の大名たちに命を狙われ、豊臣家が滅ぼされてしまうのではないかという強い恐怖です。かつて自分が織田信長の子孫を差し置いて天下を取ったからこそ、秀吉は誰よりもその残酷な歴史の法則を理解し、深く恐れていたのです。
秀頼を守るため、秀吉は豊臣政権を支える新しい政治システムを作り上げました。それが五大老(ごたいろう)と五奉行(ごぶぎょう)です。有力な大名である徳川家康や前田利家らを「五大老」としてトップに置き、石田三成ら優秀な実務担当者を「五奉行」として配置しました。彼らに互いを監視させ、権力を分散させることで、誰か一人が暴走して豊臣家を乗っ取るのを防ごうとしたのです。
体調がさらに悪化した秀吉は、五大老たちを病室に何度も呼び出しました。そして「どうか秀頼の成長を助け、見捨てないでやってほしい」と、天下人とは思えないほど涙ながらに懇願したと伝わっています。秀吉は家康たちに、秀頼への忠誠を誓う「血判状(自分の血でサインした誓約書)」を何度も書かせました。自分が築き上げた権力よりも、ただ一人の父親としての切実な哀願でした。
秀吉が特に深く信頼し、秀頼の将来を託したのが前田利家(まえだとしいえ)でした。利家は織田信長の時代からの古くからの親友であり、義理堅く誠実な人柄で知られていました。「自分が死んだら、家康の力が強くなりすぎる。お前だけが家康を抑え、秀頼を守れるのだ」。秀吉は利家に秀頼の保護者(後見人)を任せ、豊臣家の最後の防波堤として大きな期待を寄せていたのです。
秀吉の死が迫る中、最も深刻な問題だったのが朝鮮半島での戦争(文禄・慶長の役)でした。十万人以上の日本の武士たちが海を越えて戦っていましたが、すでに勝利の見込みはありませんでした。秀吉は死の直前、「軍隊を無事に日本へ撤退させよ」という遺言を残したとされています。この無謀な戦争は、豊臣家の財産と大名たちの体力を激しく消耗させ、後の内部対立の大きな火種となりました。
1598年(慶長3年)8月18日、農民から天下人にまで登り詰めた日本史上最大の英雄・豊臣秀吉は、京都の伏見城で静かに息を引き取りました。享年62歳。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。大坂城の繁栄も、天下人の栄華も、すべては朝露のように儚い夢であったという、彼の波乱万丈な生涯を締めくくる寂しくも美しい言葉でした。
秀吉の死は、すぐには世間に公表されませんでした。もしトップの死が朝鮮半島で戦っている敵軍に知られれば、大混乱となって日本軍が全滅してしまう恐れがあったからです。五大老や五奉行たちは秀吉の死を極秘に隠したまま、海を越えた兵士たちに「ただちに撤退せよ」という命令を出しました。兵士たちは理由もわからないまま、命からがら日本へと逃げ帰ることになります。
秀吉という絶対的な「重石」がなくなったことで、豊臣政権の内部ではすぐに激しい権力争いが始まりました。戦争で活躍した加藤清正ら「武断派」と、政治や事務を取り仕切る石田三成(いしだみつなり)ら「文治派」が、朝鮮出兵の恩賞などを巡って激しく対立したのです。秀吉が懸念していた通り、豊臣家を支えるはずの家臣たちは真っ二つに割れ、修復不可能な亀裂が生じてしまいました。
秀吉の死後、豊臣家を守る最大の砦だった前田利家も後を追うように病死してしまいます。これを機に、最も強大な力を持っていた徳川家康が、秀吉の遺言を次々と破って天下取りへの野心をむき出しにしました。秀吉の死は、わずか2年後の1600年に起きる天下分け目の「関ヶ原の戦い」へと直結し、豊臣の時代から江戸幕府へと移り変わる、日本の歴史の決定的な分岐点となったのです。