江戸時代の中頃、日本の医学は中国から伝わった漢方医学が主流でした。当時の医者たちは、数百年も前の古い本に書かれた理論をそのまま信じて治療を行っていました。しかし、若き蘭方医(オランダ流の医者)だった杉田玄白(すぎたげんぱく)は、「本当の人間の体はもっと違う仕組みなのではないか」と疑問を抱いていました。そんな中、長崎から江戸に持ち込まれたオランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、そのリアルな解剖図に大きな衝撃を受けます。
1771年3月、杉田玄白と親友の前野良沢(まえのりょうたく)、中川淳庵らは、江戸の小塚原刑場(東京都荒川区)で行われた処刑囚の解剖(腑分け)に立ち会うチャンスを得ました。彼らは手に入れたばかりのオランダの本を広げ、目の前で解剖されていく人間の内臓をじっくりと見比べました。すると、漢方の本に書かれている図は間違いだらけで、オランダの本に描かれた図が血管の1本に至るまで完璧に正しいことが分かったのです。
「この正確な西洋の医学を日本に広めなければ、多くの患者を救うことはできない。何としてもこの本を日本語に訳そう!」解剖を終えた帰り道、興奮が冷めない玄白たちは熱く誓い合いました。翌日から、オランダ語が最も得意だった前野良沢の屋敷にメンバーが毎日のように集まり、前代未聞の翻訳プロジェクトが始動しました。しかし、彼らの前に立ち塞がったのは、言葉の壁という気の遠くなるような暗闇でした。
当時の日本には、オランダ語の単語の意味を調べるための便利な辞書(辞典)など存在しませんでした。良沢が知っていたわずかな単語だけをヒントに、パズルのピースを合わせるような作業が続きます。例えば「フルヘーヘン」という単語の意味が分からず、何日も悩み続けました。やがて、それが「庭掃除のほうきでゴミを集めるように、枝が1ヶ所に集まること。つまり『うずたかい』という意味だ!」と分かった時は、全員で手を取り合って涙を流して喜びました。
翻訳を進める中で、もう一つの大きな問題が起きました。オランダの本に出てくる医学用語に対応する日本語が、当時の日本にはそもそも存在しなかったのです。そこで玄白たちは、「神の気のようなものが経(わた)る糸」という意味から『神経(しんけい)』という新しい言葉を自分たちで作り出しました。他にも『軟骨』や『動脈』など、現代の私たちが理科の教科書や日常生活で普通に使っている多くの言葉が、この時に彼らによって発明されたのです。
作業開始から約3年が経ち、何十回も書き直されて原稿が形になってきました。ここで二人のリーダーの間に意見の違いが生まれます。学者肌の前野良沢は「まだ誤訳があるかもしれない。完璧になるまで出版すべきではない」と主張しました。一方、現役の医者である杉田玄白は「完璧でなくても、今すぐこの知識を世に出さなければ、今日も救えるはずの患者が死んでしまう!」と訴え、良沢の了解を得て出版へと踏み切ることにしました。
当時の江戸幕府は、キリスト教の思想が日本に入り込むことを防ぐため、外国の書籍を出版することに対して非常に厳しい目を光らせていました。もし「怪しい思想が書かれている」と疑われれば、死刑やお家断絶になる危険性すらあったのです。玄白は、幕府を刺激しないよう、事前に短い予告本を出版して反応を確かめるなど、細心の注意を払いました。幸いにも、幕府の重臣たちからその有用性が認められ、正式に出版の許可が下りたのです。
1774年8月、全5冊からなる日本初の本格的な西洋翻訳医学書『解体新書(かいたいしんしょ)』が世に送り出されました。表紙には、職人が精密に彫り上げたリアルな人体解剖図が描かれていました。この本の登場は、それまでの日本の医学界に凄まじい衝撃を与えました。「人間の体の中は、本当に本の通りになっていたんだ!」と、全国の医者や学者たちが驚愕し、貪るようにこの本を読み耽ったのです。
本の執筆にあたり、最も苦労した前野良沢の名前は、実は『解体新書』の著者欄には載っていません。「完璧でない本に自分の名は載せられない」という良沢のプライドを玄白が尊重したためです。二人が喧嘩したわけではなく、その後も友情は続きました。玄白はのちに、この翻訳の苦労話をまとめた『蘭学事始(らんがくことはじめ)』を書き残し、当時の若者たちに「未知の学問へ挑戦する素晴らしさ」を熱く語り継ぎました。
『解体新書』の刊行は、日本の医学を「まじない」や「経験」のレベルから、確かな証拠に基づく「近代科学」へと進化させる決定的な契機となりました。それだけでなく、「自分たちの力で西洋の高度な知識を翻訳できるんだ!」という強い自信を日本の知識人たちに与えました。この本をきっかけに、天文学や物理学などあらゆる分野で蘭学が爆発的に大発展する端緒を開き、明治維新以降の日本の急速な近代化を支える強固な土台となったのです。