1582年5月、武田氏を滅ぼした功績として、徳川家康は同盟国である織田信長の招待を受け、安土城での接待を満喫していました。その後、わずか30名ほどの家臣を引き連れて和泉国の堺(大阪府)を見物し、茶の湯や商人たちとの交流を楽しんでいました。家康にとって、長年の戦いから解放された束の間の平和な休息時間でした。しかし、この平和な時間は、ある日の早朝に飛び込んできた一つの知らせによって木端微塵に打ち砕かれます。
6月2日の朝、京都の豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)が血相を変えて家康の元へ駆けつけてきました。「信長公が、明智光秀の謀反により本能寺の変で討たれました!」。この衝撃的な知らせに、家康は絶望のどん底に突き落とされます。信長の強大な後ろ盾を失っただけでなく、明智軍は信長の同盟者である家康の命も確実に狙ってきます。供の者がわずか数十人しかいない今、敵の大軍に見つかれば全滅は免れない、絶体絶命の危機でした。
パニックに陥った家康は、「もはや逃げ切ることはできぬ。京都の知恩院へ向かい、そこで信長公の後を追って切腹する!」と叫びました。しかし、ここで本多忠勝(ほんだただかつ)や酒井忠次(さかいただつぐ)といった頼れる重臣たちが必死に引き止めます。「殿、ここで死んで何になりますか!なんとしても三河へ生きて帰り、信長公の仇を討つことこそが真の忠義です!」。家臣たちの熱い説得により、家康は正気を取り戻し、死の逃避行への出発を決意します。
三河へ帰るには、明智軍が支配する京都周辺を避けなければなりません。そこで家臣たちが選んだのが、険しい山々が連なる大和国(奈良県)、山城国(京都府南部)、近江国(滋賀県)、伊賀国(三重県)を抜けて伊勢の海に出るという、極めて過酷なルートでした。特に伊賀国は、前年に信長によって徹底的に弾圧されたばかり(天正伊賀の乱)であり、織田の同盟者である家康に対して強い恨みを持つ人々が潜む、最も危険な地帯でした。
この危険なルートを切り抜けるための切り札となったのが、家康の家臣で伊賀出身の服部半蔵(はっとりはんぞう)でした。半蔵はルート上の地侍や、伊賀・甲賀の忍者(忍びの者)たちに必死の働きかけを行います。「家康様をお助けすれば、必ず手厚い恩賞を約束する」。半蔵の説得と、豪商・茶屋四郎次郎がばら撒いた大量の金貨の力によって、約200人もの伊賀・甲賀の者たちが家康の護衛として集結し、道案内を買って出てくれました。
しかし、道中は決して安全ではありませんでした。信長が死んだという情報はすでに各地に広まっており、混乱に乗じて一攫千金を狙う農民や野盗による「落ち武者狩り」が至る所で発生していました。一揆の集団に襲撃された家康一行は、本多忠勝や井伊直政といった猛将たちが血まみれになって槍を振るい、必死で敵を蹴散らしながら、一睡もせずに険しい山道を駆け抜けました。一歩間違えれば誰が命を落としてもおかしくない、地獄のサバイバルでした。
この逃避行の過酷さを物語る悲劇があります。家康と行動を共にしていた武田氏の元重臣・穴山梅雪(あなやまばいせつ)の死です。彼は家康の集団から少し遅れて進んでいたため、木津川のほとりで運悪く落ち武者狩りの一揆集団に襲撃され、命を落としてしまいました。もし家康が少しでも判断を誤ったり、護衛の忍者たちがいなかったりすれば、家康自身が同じ運命を辿っていた可能性は極めて高かったのです。
幾多の襲撃と険しい山越えを乗り越え、家康一行はついに伊勢国の白子(三重県鈴鹿市)の海岸へとたどり着きました。ここでようやく船を手に入れた家康たちは、明智軍の追っ手の恐怖から逃れ、海路を通って無事に本国である三河国の大浜(愛知県)へと上陸を果たします。6月2日に堺を出発してからわずか数日という、人間の限界を超えた驚異的なスピードでの決死の逃走劇が、ついに幕を閉じたのです。
無事に岡崎城へ帰還した家康は、共に死線をくぐり抜けた家臣たちと涙を流して喜び合いました。この神君伊賀越えという共通の壮絶な体験は、家康と家臣たち(のちの徳川四天王など)の間に、決して揺らぐことのない絶対的な信頼関係と強固な絆を生み出しました。また、命を救ってくれた伊賀や甲賀の忍者たちを正式に家臣として召し抱え、江戸幕府の重要な諜報部隊(伊賀同心など)の基礎を作り上げました。
家康が三河で軍勢を立て直している間に、豊臣秀吉が「中国大返し」を成功させて明智光秀を討ち取ってしまいます(山崎の戦い)。家康は信長の仇討ちこそ逃しましたが、生涯最大の危機を生き延びたことで、天下取りのサバイバルレースに生き残ることができました。神君伊賀越えでの苦難と家臣団の結束は、その後、家康が秀吉と渡り合い、やがて江戸幕府を開いて天下を統一するための、歴史の決定的な足がかりとなったのです。