1853年、4隻の黒船でやってきたペリーは、アメリカ大統領からの「国を開いて貿易をしてほしい」という手紙(国書)を幕府に渡し、「将軍が亡くなって大変そうだから、返事は1年後に聞きに来る」と言い残して日本を去りました。老中・阿部正弘(あべまさひろ)は、この1年の間に急いでお台場(砲台)を作ったり、大名たちに意見を聞いたりして、なんとか外国を追い返すための準備を整えようと必死に時間を稼ごうとしていました。
しかし、ペリーは日本人の常識を裏切ります。1年後という約束からわずか半年しか経っていない1854年(嘉永7年)1月、ペリーの艦隊が再び日本近海に姿を現したのです。実はペリーは、ロシアやフランスの軍艦が日本に近づいているという情報を聞きつけ、「他の国に手柄を横取りされてたまるか!」と焦って予定を大幅に早めてやってきたのでした。準備が全く間に合っていない幕府は大パニックに陥ります。
しかも、今回は前回の4隻をはるかに上回る、最終的に合計9隻(蒸気船3隻、帆船等6隻)というとてつもない大艦隊を率いてきました。乗組員の数も2000人以上、装備している大砲の数は250門にも及びます。これは当時のアメリカ海軍が動かせる戦力の約4分の1を極東の日本に集中させた計算になり、ペリーが「絶対に開国させる」という本気の決意と、圧倒的な軍事力による威嚇(砲艦外交)を見せつけた瞬間でした。
さらに幕府を震え上がらせたのは、ペリーの艦隊が前回の浦賀よりもさらに奥深く、江戸の町のすぐ近く(現在の横浜市沖)までズカズカと侵入してきたことです。「ここで交渉しなければ、次は江戸の町を直接攻撃するぞ」という強烈な無言のメッセージでした。急ピッチで建設中だったお台場の砲台もまだ未完成であり、幕府は江戸が火の海になる恐怖に完全に屈服するしかありませんでした。
武力での抵抗を諦めた幕府は、急遽、横浜村(現在の神奈川県庁周辺)の海岸に交渉のための応接所を建設しました。ここで、幕府側の代表である林復斎(はやしふくさい)とペリーとの間で、およそ1ヶ月にわたる緊迫した交渉が始まります。ペリーは「薪や水、食料を補給する港を開いてほしい」「難破した船員を保護してほしい」と強く要求しました。武力を背景にした要求に、日本側はノーと言える状況ではありませんでした。
交渉の合間、ペリーは「アメリカの優れた技術を見せつける」ために、持参した数々の文明の利器を幕府の役人たちに披露しました。その代表が、実際の4分の1サイズの「蒸気機関車の模型」や、遠くまで一瞬で言葉を伝える「電信機(モールス信号)」です。煙を吐いて走る小さな列車にまたがった日本の役人たちは大喜びしましたが、同時に西洋の圧倒的な科学技術の差に、深い絶望感も味わうことになりました。
そして1854年3月3日、幕府はついにペリーの要求を受け入れ、「日米和親条約(神奈川条約)」に調印しました。この条約によって、日本は燃料や食料を補給するために「下田(静岡県)」と「函館(北海道)」の二つの港を開くこと、そしてアメリカの役人(領事)が下田に駐在することを認めました。この瞬間、徳川家光の時代から200年以上も固く守られてきた「鎖国」のドアが、ついにこじ開けられたのです。
実はこの条約には、日本にとって非常に不利な「片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)」というルールが盛り込まれていました。これは「もし日本が将来、別の国に何か有利な条件を認めたら、アメリカにも自動的にその有利な条件を与える」というものです。しかもアメリカは日本に同じことをしてくれません。外交の知識が乏しかった幕府は、気づかないうちに極めて不平等な契約を結ばされてしまったのです。
アメリカが日本を開国させたというニュースは、すぐに世界中へ伝わりました。「アメリカだけずるい!」と、すぐにイギリス、ロシア、オランダの使節たちも次々と日本に押し寄せ、全く同じ条件での和親条約を結ばせていきました(安政の和親条約)。ペリーがこじ開けた小さな穴から、西洋列強の帝国主義の波が怒涛のように日本へと流れ込んでくることになったのです。
ペリーの再来航と日米和親条約の締結は、日本社会に大激震をもたらしました。200年続いた平和な鎖国体制が崩れ去ったことで、「外国を追い払え!(尊王攘夷)」と叫ぶ武士たちと、「これからは開国して国を強くするべきだ」と考える武士たちが激しく対立し始めます。ペリーがもたらした黒船の恐怖は、幕府の権威を完全に失墜させ、江戸幕府崩壊と明治維新へと向かう、歴史の決定的な転換点となったのです。