1274年と1281年の二度にわたる「元寇」という外国からの侵略を退けた後、鎌倉幕府はかつてない大きな危機を迎えていました。外国との防衛戦争では敵から新しい領地を奪うことができないため、命がけで戦った武士(御家人)たちに十分な「御恩(ごおん:ご褒美の土地)」を与えることができなかったのです。土地をもらえず、自腹で戦費や武器代を負担した御家人たちは借金に苦しみ、幕府に対する不満をマグマのように溜め込んでいました。
この絶体絶命の危機に立ち上がったのが、北条氏と親戚関係にある幕府の超エリート御家人・安達泰盛(あだちやすもり)です。彼は「弘安の徳政」と呼ばれる大改革をスタートさせました。理不尽な借金で苦しむ御家人たちを救うため、裁判のスピードを上げ、将軍を中心とした公平なルールで幕府を立て直そうと必死に努力したのです。この改革は、苦しい生活を送っていた多くの御家人たちから大歓迎されました。
しかし、泰盛の改革を面白く思わない集団がいました。それが御内人(みうちびと)と呼ばれる人々です。鎌倉幕府の最高権力者である北条氏の家長を「得宗(とくそう)」と呼びますが、御内人はその得宗に個人的に仕えるプライベートな家臣たちのことです。彼らは幕府の正式な家臣(御家人)よりも身分は下でしたが、得宗の強大な権威を背景にして、次第に幕府の中で偉そうに振る舞うようになっていました。
その御内人のトップ(内管領)として絶大な権力を握っていたのが、平頼綱(たいらのよりつな)という人物です。頼綱は、安達泰盛が「将軍を中心とした正しい政治」を行おうとしていることに強い危機感を抱きました。「このまま泰盛の改革が進めば、我々御内人の特権や権力が完全に奪われてしまう!」。頼綱は、自分たちの権力と地位を守り抜くために、泰盛を排除する恐ろしい計画を練り始めます。
安達泰盛を支持する「正式な御家人たち」と、平頼綱をリーダーとする「得宗のプライベートな家臣たち(御内人)」。鎌倉幕府の中には、全く異なる二つの巨大な権力グループができてしまい、バチバチと激しい火花を散らしていました。当時の第9代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)はまだ15歳の若さであり、この経験豊富な両者の対立をうまくまとめる力を持っていなかったのです。
1285年、ついに平頼綱が牙を剥きます。頼綱は若い執権・貞時に対し、「泰盛の息子が、源氏の名字を名乗って将軍になろうと企んでいます。泰盛一族は幕府を乗っ取るつもりに違いありません!」と、事実とは異なる嘘の密告(でっち上げ)を行いました。これを信じ込んでしまった貞時は頼綱の言葉にすっかり騙され、ついに彼に対して「謀反人である安達一族を討伐せよ」という正式な命令を出してしまったのです。
旧暦の11月(霜月)17日の午前中、事件は突如として起きました。泰盛が自分の屋敷でくつろいでいたところへ、頼綱が率いる完全武装の軍勢が怒涛のようになだれ込んできたのです!これが歴史のテストに出る霜月騒動(しもつきそうどう)の始まりです。完全に不意を突かれた泰盛でしたが、すぐに武器をとって応戦し、平和だった鎌倉の町は一瞬にして血で血を洗う激しい市街戦の恐ろしい舞台となりました。
準備万端であった頼綱の軍勢に対し、不意打ちを受けた安達軍は次第に追い詰められていきます。激しい戦闘の末、午後には泰盛をはじめとする一族と、彼を支持していた多くの御家人たちが討ち死にし、安達一族は無残にも滅亡してしまいました。さらに頼綱の追撃は鎌倉だけにとどまらず、全国各地にいた泰盛の仲間たちも次々と処刑されるという、幕府を二分する凄惨な大粛清へと発展していきました。
この霜月騒動で最大の政敵を滅ぼしたことで、平頼綱ら御内人は幕府の中で誰も逆らえない絶対的な権力を握りました。北条氏の家長(得宗)と、その家臣である御内人が政治を完全に独占するこの体制を「得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)」と呼びます。本来の幕府の主役であり、泰盛の改革に希望を持っていた一般の御家人たちは、すっかり政治の蚊帳の外へと追いやられてしまったのです。
しかし、この強引な独裁政治は長くは続きませんでした。やがて頼綱は成長した北条貞時によって暗殺されますが(平禅門の乱)、得宗への権力集中は止まりませんでした。生活が苦しい上に、自分たちを蔑ろにする幕府に対し、全国の御家人たちの不満は限界に達します。この事件は、御家人たちの幕府への信頼を完全に破壊し、のちの鎌倉幕府滅亡へと繋がる歴史の決定的な契機(ターニングポイント)となったのです。