1600年の「関ヶ原の戦い」で勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康。しかし、実はこの時点ではまだ戦国時代は完全に終わっていませんでした。なぜなら、かつての天下人である豊臣家が、難攻不落の巨大な要塞・大坂城に依然として居座っていたからです。家康は自分が生きているうちに、幕府を脅かす可能性のある豊臣家を完全に潰しておかなければならないと、強く焦りを感じていました。
家康が最も恐れたのは、亡き秀吉の息子である豊臣秀頼(とよとみひでより)の存在でした。秀頼は立派な青年に成長し、豊臣家にはかつての栄華を慕う大名たちから莫大な財力が集まっていました。「このままでは、私が死んだ後に豊臣家が再び天下を奪い返しに来るかもしれない…」。年老いた家康は、徳川家の未来を確固たるものにするため、豊臣家を滅ぼす口実(戦争の理由)を虎視眈々と探し始めます。
1614年、家康はついに強引なケンカを吹っ掛けます。豊臣家が京都に建てたお寺(方広寺)の鐘に彫られた「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんほうらく)」という文字に難癖をつけたのです。「『家』と『康』の字を切り離して私を呪い、豊臣だけが楽しむという意味だ!」と激怒。これを方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)と呼びます。どう見ても言いがかりですが、これが開戦の決定的な口実となりました。
家康の理不尽な要求に対し、豊臣家もついに徹底抗戦を決意します。しかし、豊臣家には味方してくれる大名がほとんどいませんでした。そこで、関ヶ原の戦いで領地を失い、徳川家を恨んでいる全国の「牢人(ろうにん:主君を持たない武士)」たちに声をかけます。すると、なんと約10万人もの武士が大坂城に集結!その中には、のちに「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と讃えられる天才武将・真田信繁(さなだのぶしげ/幸村)もいました。
1614年11月、家康は約20万の大軍を率いて大坂城を包囲します。これが大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)の始まりです。しかし、豊臣秀吉が持てる技術のすべてを注ぎ込んで作った大坂城は、とてつもなく頑丈な無敵の要塞でした。深い堀と高い石垣に守られ、徳川の大軍が四方から何度攻撃を仕掛けても、城はビクともしません。百戦錬磨の家康でさえ、この城を力ずくで落とすことは不可能だと悟りました。
大坂城の防御で唯一の弱点とされた南側。そこを守っていたのが真田信繁です。彼は弱点部分に出城(小さな砦)を築き、これを「真田丸(さなだまる)」と名付けました。信繁は徳川軍を巧みに挑発してこの真田丸に引きつけ、一斉に鉄砲を撃ち掛けて大ダメージを与えます。この「真田丸の戦い」で徳川軍は多数の死傷者を出し、信繁の天才的な戦術の前に手も足も出ませんでした。
力攻めを諦めた家康は、卑劣な心理戦に切り替えます。ヨーロッパから輸入した当時最新鋭の長距離砲(カルバリン砲など)を使い、夜中も休まず大坂城に向けて大砲を撃ち込み続けたのです。轟音とともに放たれた砲弾は、城の奥深くにいる秀頼の母・淀殿(よどどの)の部屋に直撃!パニックに陥った淀殿はすっかり戦意を喪失し、豊臣家は家康の狙い通り、平和交渉(和議)に応じることになってしまいました。
1614年12月、ついに両者の間で和議(平和条約)が結ばれます。家康が提示した条件は「豊臣家の領地はそのままでいいから、大坂城の『外堀』だけは安全のために埋めさせてくれ」というものでした。淀殿らは「外堀だけなら…」とこれを受け入れます。しかし、これが百戦錬磨のタヌキ親父・家康の仕掛けた最大の罠だったのです。豊臣家は、この悪魔の契約によって自らの命綱を手放すことになります。
和議が結ばれるやいなや、徳川軍は約束の外堀だけでなく、なんと内堀まで勝手にドンドン埋め始めてしまいました!豊臣側が「約束が違う!」と抗議しても、家康は「工事の者が間違えたようだ」ととぼけるばかり。結局、大坂城の堀はすべて埋め立てられ、高い石垣も崩されてしまいました。無敵を誇った大坂城は、堀のないただの平地となり、防御力ゼロの「丸裸の城」にされてしまったのです。
堀を埋めて大坂城の防御を無効化した家康は、数ヶ月後の1615年、再び「牢人たちを追い出せ」と無理難題を押し付けます。豊臣家がこれを拒否すると、家康は「約束を破ったな!」と再び大軍で攻め込みました。これが「大坂夏の陣」です。丸裸の大坂城にもはや勝ち目はなく、豊臣家は滅亡。大坂冬の陣は、江戸幕府が約260年続く絶対的な支配体制を完成させるための、周到に仕組まれた巨大な罠だったのです。