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大宝律令の制定 たいほうりつりょうのせいてい

🕒 701年08月 📜 飛鳥時代
📍 場所: 奈良県 藤原京 👤 関連: 文武天皇,刑部親王,藤原不比等
701年、唐(中国)の進んだ法律をお手本にして作られた、日本初の本格的で完璧な法律のセット。悪いことをしたときの罰則を決めた「(りつ)=刑法」と、政治の仕組みや人々の生活のルールを決めた「(りょう)=行政法・民法」から成り立っています。この大宝律令の完成により、天皇を頂点として国全体をルールでガッチリと管理する律令国家(りつりょうこっか)の仕組みが完成しました。大化の改新から始まった「天皇中心の強い国づくり」が、ついにゴールを迎えた歴史的瞬間です。
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「律」と「令」って何が違うの?

大宝律令は「律(りつ)」と「令(りょう)」という2つのルールがセットになっています。「律」は、泥棒や人殺しなど、悪いことをした人にどんな罰(ムチで叩く、牢屋に入れるなど)を与えるかを決めた、今でいう「刑法」のこと。一方の「令」は、税金の集め方や役人の仕事のやり方などを細かく決めた、今でいう「行政法や民法」にあたります。この2つを組み合わせることで、国のあらゆることを法律でコントロールできるようにしたのです。
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国のトップ機関「二官八省」

「令」によって、国の政治を行う役所の仕組みが二官八省(にかんはっしょう)というシステムにバッチリ整備されました。神様へのお祈りや祭りを担当する「神祇官(じんぎかん)」と、実際の政治全体をまとめる「太政官(だいじょうかん)」の2つのトップ機関(二官)を設置。さらに太政官の下に、税金、裁判、外交など、担当する仕事ごとに8つのグループ(八省)を作りました。現代の日本政府の「〇〇省」という仕組みのルーツはここにあるのです。
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日本全国をきっちり区画整理!

地方の分け方も大きく変わりました。日本全国を「国(くに)・郡(ぐん)・里(り)」の3つのレベルにきっちり区画整理したのです。今の「都道府県・市区町村」と同じイメージですね。そして、一番大きな「国」のトップには、都からエリート役人である国司(こくし)が知事として派遣されました。一方、その下の「郡」のトップである郡司(ぐんじ)には、昔からその土地を支配していた地元の豪族が任命され、国司の言うことを聞くピラミッド型の支配体制が作られました。
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重税の嵐!「租・庸・調」

国を運営するには莫大なお金が必要です。大宝律令では、人々の税金のルールも厳格に決められました。それが租・庸・調(そ・よう・ちょう)です。「租」は田んぼで採れたお米(収穫の約3%)、「庸」は都で働く代わりに布を納めること、「調」は地方の特産品(絹や糸、海産物など)を納める税金でした。これに加えて、兵士として訓練を受ける義務なども課せられ、当時の農民たちにとって、律令国家の税金は逃げ出したくなるほど非常に重くて苦しいものでした。
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国民を徹底管理!「戸籍」の完成

税金を確実に、1円も取りこぼさずに集めるためには「誰が、どこに、何歳で住んでいるか」を正確に知る必要があります。そこで国は、6年に1度、全国民の年齢や性別を細かく記録した戸籍(こせき)を厳密に作成しました。この戸籍のデータをもとに、6歳以上のすべての人に平等に田んぼ(口分田)を貸し与える班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)をパーフェクトに運用したのです。国民全員のデータを徹底的に管理する、恐るべき監視社会の誕生でもありました。
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大改革の立役者・藤原不比等

この超複雑で巨大な大宝律令を、中心となって完成させたのが藤原不比等(ふじわらのふひと)という天才政治家です。彼のお父さんは、あの大化の改新で蘇我氏を倒した中臣鎌足(なかとみのかまたり)!不比等は父の意志を継ぎ、日本の実情に合わせて唐の法律をアレンジするという超難易度の高いミッションを見事にクリアしました。この大功績により藤原氏は天皇から絶大な信頼を得て、のちの平安時代に頂点を極める大貴族・藤原氏の繁栄の基礎をガッチリと固めたのです。
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「日本」ブランドの完成と独立宣言

大宝律令が完成したことは、外国に対する強烈なアピールでもありました。翌年の702年に派遣された遣唐使(けんとうし)は、唐の皇帝に対して「我々の国はもう野蛮な『倭(わ)』ではありません。立派な法律を持った『日本』という独立国家です!」と胸を張って宣言しました。大化の改新から始まった長い長い改革の道のりは、この大宝律令の完成をもってついにゴールを迎え、現代にも繋がる「日本」という国の土台がここに完全に出来上がったのです。
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