聖徳太子が亡くなった後の飛鳥時代、朝廷で一番の権力を持っていたのが蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子・蘇我入鹿(そがのいるか)です。彼らは天皇を差し置いて政治を思いのままに操り、自分たちのお墓を「陵(みささぎ=天皇の墓の呼び名)」と呼ばせたり、勝手に子供に役職を譲ったりと、まるで自分たちが天皇であるかのようなやりたい放題の振る舞い(専横)をしていました。
蘇我氏の暴走は止まりません。643年、入鹿は次の天皇の有力候補であった聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を、自分の言いなりになる天皇を立てるために邪魔だとして軍隊で襲撃し、なんと自殺に追い込んでしまったのです!天皇の血を引く尊い一族を滅ぼしたこの残酷な事件により、朝廷内の貴族や皇族たちの間には、蘇我氏に対する強い怒りと恐怖が渦巻くようになりました。
「このままでは日本が蘇我氏に乗っ取られてしまう!」と強い危機感を抱いたのが、天皇の息子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。彼は、同じく蘇我氏に不満を持つ優秀な役人・中臣鎌足(なかとみのかまたり)と、飛鳥寺で行われた「蹴鞠(けまり)」の会で運命的な出会いを果たします。落とした靴を拾ってあげたことをキッカケに親友となった二人は、密かに蘇我氏を倒すためのクーデター計画を練り始めました。
二人が計画した暗殺の舞台は、645年6月12日、今の奈良県にあった飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)という宮殿です。この日は、朝鮮半島の国々から届いた貢ぎ物を天皇に披露する「三韓の調(さんかんのみつき)」という重要な儀式の日でした。この厳粛な儀式であれば、普段は用心深い入鹿も剣を外して無防備な状態で出席するはず。二人はこの一瞬の隙を狙う、大胆な奇襲作戦を決行することにしたのです。
儀式が始まり、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の目の前で外交文書が読み上げられている最中、ついに事件は起きます。緊張で震える暗殺者たちを見かねて、なんと中大兄皇子本人が剣を握りしめて飛び出し、入鹿に斬りかかりました!「私に何の罪があるのですか!」と天皇に助けを求める入鹿でしたが、中大兄皇子が「入鹿は天皇の座を奪おうとしています!」と叫ぶと、天皇は無言で奥へ引っ込み、入鹿はその場で無残に暗殺されました。
この流血の惨劇を目の当たりにした女帝・皇極天皇は、あまりのショックに耐えきれず、すぐに天皇の座を弟(孝徳天皇)に譲って退位してしまいました(日本初の生前退位)。クーデターを成功させた中大兄皇子は、新しい天皇の元で皇太子(次の天皇候補)となり、中臣鎌足は政治の最高顧問である内臣(うちつおみ)に大抜擢。政治の実権は、蘇我氏から新しい改革派のリーダーたちへと一気に移り変わったのです。
宮殿での入鹿暗殺のニュースは、すぐに父である蘇我蝦夷の耳にも届きました。「もはやこれまでか…」。味方の軍勢も次々と逃げ出してしまい、勝ち目がないと悟った蝦夷は、翌日、自分の邸宅に火を放って自害しました。この時、聖徳太子と一緒に編纂した貴重な歴史書(天皇記・国記など)も多くが灰になってしまったと言われています。こうして、何代にもわたって朝廷を牛耳ってきた蘇我氏の本流は、あっけなく滅亡したのです。
クーデターによって蘇我氏という巨大な壁を取り払った中大兄皇子たちは、すぐに新しい政府を発足させます。そして、日本で初めてとなる独自の元号「大化(たいか)」を制定しました。この乙巳の変(いっしのへん)をスタート地点として、天皇を中心とした強力な国づくりを目指す政治の大改革が始まります。この一連の改革の動き全体を、歴史用語で大化の改新(たいかのかいしん)と呼びます。
彼らが目指したのは、豪族たちが勝手に土地や人々を支配する古い仕組みを壊し、「日本の土地も人々も、すべて天皇(国)のものだ!」とする公地公民(こうちこうみん)のルールを作ることでした。これは、当時の超大国・唐(中国)の進んだ法律(律令)を取り入れた、最先端の国家システムです。強引な改革には反発もありましたが、中大兄皇子は後に天智天皇として、強いリーダーシップで日本を近代的な独立国家へと導いていきます。
このクーデターの最大の功労者である中臣鎌足は、死の直前に天皇から「藤原」という新しい名字を与えられました(藤原鎌足)。彼の子孫は、のちの奈良時代や平安時代を通じて天皇のお妃を出し、朝廷の権力を独占する「藤原氏」という超巨大な貴族の一族へと成長していきます。乙巳の変は、日本の政治の形を根本から変えただけでなく、その後の歴史を何百年も動かすことになる名門一族が誕生した瞬間でもあったのです。