平安時代の中頃、朝廷では藤原道隆(ふじわらのみちたか)という人物が最高権力者として君臨していました。彼の長男である藤原伊周(ふじわらのこれちか)は、若くして大臣に大抜擢され、妹の藤原定子(ふじわらのていし)も一条天皇のお后(中宮)となるなど、その一族(中関白家)はまさに我が世の春を謳歌していました。しかし、995年に父の道隆が病気で急死したことで、輝かしい一族の運命の歯車は音を立てて狂い始め、水面下で激しい権力闘争が巻き起こることになります。
道隆の死後、次の最高権力者の座をめぐって激しい争いが勃発します。候補者は二人。父の権力をそのまま引き継ぎたい若きエリートの藤原伊周と、彼から見て叔父にあたる野心家の藤原道長(ふじわらのみちなが)です。一条天皇の母であり、朝廷で強い発言力を持っていた藤原詮子(せんし)が弟の道長を強く推したことで、道長が一歩リードして政治の実権を握りました。プライドをへし折られた伊周は、道長に対して激しい憎悪を抱くようになります。
権力争いでピリピリしていた頃、伊周は恋に夢中になっていました。お相手は、亡くなった太政大臣・藤原為光の三女(三の君)です。伊周は彼女の屋敷に熱心に通っていました。ところが同じ時期、なんと前の天皇である花山法皇(かざんほうおう)も、全く同じ屋敷に頻繁に通うようになっていたのです。実は花山法皇の目当ては三女ではなく、同じ屋敷に住んでいる妹の四女(四の君)でした。これが悲劇の始まりとなります。
ある夜、恋人の屋敷に向かった伊周は、そこに花山法皇の立派な牛車が止まっているのを発見します。本当は妹に会いに来ていただけなのですが、伊周は「法皇様が、俺の愛する三の君を奪いに来たに違いない!」と完全に勘違いしてしまいました。嫉妬で怒り狂った伊周は、血気盛んな弟の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に「法皇に恋人を奪われそうだ」と相談します。弟の隆家は「法皇だろうが関係ない、脅かしてやりましょう!」と過激な行動に出る決意をしました。
996年1月16日の夜、花山法皇が女性の屋敷から帰ろうとしたその時、暗闇から武装した伊周と隆家の兄弟一行が襲いかかりました。隆家の部下が放った弓矢は、なんと法皇の着ていた衣の袖を見事に射抜いてしまいます。さらに混乱の中で、法皇の護衛をしていた従者2名が殺害され、首を持ち去られるという恐ろしい異常事態に発展しました。いくら出家しているとはいえ、かつての日本のトップ(天皇)に向けて矢を放つなど、絶対に許されない前代未聞の大事件でした。
命からがら逃げ帰った花山法皇ですが、「女性の家にこっそり通っていたことがバレるのは恥ずかしい」と思い、なんと自分が襲われたこの大事件を朝廷に届け出ず、隠そうとしました。しかし、従者が殺され首まで持ち去られた事件をいつまでも隠し通せるはずがありません。すぐに京都の町中で「伊周兄弟が法皇様を襲ったらしいぞ」という噂が広まりました。この政敵の信じられない自滅と大失態を、叔父の藤原道長が絶対に見逃すはずがありませんでした。
道長はこの「長徳の変」を徹底的に追及しました。法皇への襲撃という大罪に加え、「伊周が天皇や道長を呪い殺そうとしていた」という呪詛(じゅそ)の罪まで被せられたのです。一切の弁明は許されず、伊周は九州の大宰府へ、弟の隆家は出雲国(島根県)への左遷(事実上の島流し)という非常に重い刑罰が下されました。栄華を誇っていた名門一族の兄弟は、恋の勘違いというあまりにもお粗末な理由から、政治の表舞台から完全に追放されてしまったのです。
この事件で最も悲惨な運命をたどったのは、二人の妹であり一条天皇が深く愛していた中宮(お后)の藤原定子でした。愛する兄や弟が罪人として屋敷から引きずり出される絶望的な状況の中、ショックを受けた定子は、自らハサミで美しい髪を切り落として出家(尼になること)してしまいます。天皇の正室が出家するという異常事態は朝廷に大きな衝撃を与えました。彼女に仕えていた『枕草子』の作者・清少納言も悲しみに暮れ、華やかだった定子のサロンは崩壊へと向かいます。
この一連の大騒動により、藤原道長に逆らうことのできる政治的な有力ライバルは、朝廷から一人残らず消え去りました。もし伊周が大人しくしていれば、道長の権力基盤はもっと不安定で、長く苦しい権力争いが続いていたかもしれません。しかし、伊周が自ら引き起こした若気の至りによる自爆事件のおかげで、道長は一切の手を汚すことなく、朝廷の最高権力者の座を完全に確定させることができたのです。道長にとっては、まさに天から降ってきたような幸運でした。
長徳の変は、単なる若き貴族の色恋沙汰や勘違いによる喧嘩ではありません。この事件で最大のライバルを排除した道長は、やがて自分の娘たち(彰子など)を次々と天皇の后(きさき)として送り込み、一家に三人の后を立てる「一家立三后(いっかりつさんごう)」という前代未聞の偉業を成し遂げていきます。平安時代の歴史で最も華やかな、藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)の絶対的な全盛期が幕を開けるための、歴史の決定的な分岐点となった大事件なのです。