平安時代の初め、最澄や空海がもたらした天台宗や真言宗といった仏教は、山奥の立派なお寺で厳しい修行をしたり、難しい漢字の経典を何冊も読んだりしなければ救われないという、非常にエリート向けの学問でした。そのため、文字も読めず、毎日生きるために必死に働かなければならない一般の庶民にとって、仏教の救いは手の届かない遠い世界のお話だったのです。
そこに登場したのが、空也(くうや)という一人の僧侶です。彼は天皇の血を引く高貴な生まれだとも噂されましたが、自らのお寺を持とうとせず、ボロボロの服を着て日本中を旅して回る「私度僧(しどそう:国に公認されていない僧)」でした。彼は地方で橋を架けたり、井戸を掘ったり、道に行き倒れた人の遺体を埋葬したりと、常に苦しむ庶民の生活に寄り添いながら修行を続けていました。
空也が京都に入った938年頃は、日本中が大混乱に陥っていました。関東では「平将門の乱」、瀬戸内海では「藤原純友の乱」(承平天慶の乱)が同時多発し、京都の町も疫病(伝染病)が大流行して、毎日何十人もの人々が道端でバタバタと死んでいく生き地獄のような有様でした。「世の中はもうすぐ終わる(末法思想)」。誰もが深い絶望と恐怖に打ちひしがれていました。
地獄のような京都の街角(市:いち)に立った空也は、首から鉦(かね)を下げ、それを「チーン、チーン」と叩きながら人々に語りかけました。「お金がなくても、文字が読めなくても大丈夫。ただ心から『南無阿弥陀仏(阿弥陀様、どうかお救いください)』と声に出して唱えなさい(口称念仏)。それだけで、死んだ後は必ず苦しみのない極楽浄土へ行けますよ」。これは当時の仏教の常識を覆す、あまりにも簡単で画期的な教えでした。
「ただ唱えるだけで本当に救われるの?」。最初は半信半疑だった庶民たちも、空也の優しく力強い言葉に涙を流してすがりつきました。病に苦しむ者も、親を亡くした者も、誰もが彼の周りに集まって一緒に念仏を唱え始めたのです。一部のエリートの特権だった仏教が、初めてどん底で苦しむ一般庶民の手に届いた瞬間でした。人々は感謝と尊敬を込めて、空也のことを「市聖(いちのひじり)」と呼びました。
空也の布教方法はさらにユニークでした。ただ念仏を唱えるだけでなく、鉦やひょうたんを叩き、リズムに合わせて踊りながら「南無阿弥陀仏」を唱える「踊り念仏」というパフォーマンスを取り入れたのです。 音楽と踊りによる集団の熱狂は、不安に押しつぶされそうになっていた人々の心を解放し、空也の教えは京都中を熱病のように巻き込んで爆発的に広まっていきました。
空也の教え(浄土教)は、やがて庶民だけでなく、宮廷の貴族たちの心にも深く浸透していきます。どれほどお金や権力があっても、当時の医学では疫病や死の恐怖から逃れることはできなかったからです。「死んだら極楽に行きたい」という願いは、身分を超えた人間の共通の祈りでした。空也のもとには、身分の高い貴族から名もなきホームレスまで、ありとあらゆる人々が救いを求めて集まりました。
951年、京都で再び恐ろしい疫病が流行すると、空也は自ら彫った観音像を台車に乗せて町中を引き歩き、病人に薬のお茶を配って回るという命がけの救済活動を行いました。この時に彼が拠点として建てた小さなお堂が、現在も京都市東山区に残る名刹・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の始まりです。彼は生涯にわたって民衆の救済と社会事業にその身を捧げ尽くしました。
歴史の教科書に必ず載っている、六波羅蜜寺にある有名な「空也上人立像」を見たことがあるでしょうか。やせ細った空也の口から、6体の小さな仏様が飛び出している不思議な木彫りの像です。あの6体の仏様は「南・無・阿・弥・陀・仏」という6つの文字の一つ一つが、仏の姿に変わって世の中に広まっていく様子を表現しています。彼の唱えた念仏が、いかに人々の心に強く響いたかを象徴する大傑作です。
938年に始まった空也の布教は、日本の仏教の歴史を根本から変えました。彼が蒔いた「念仏さえ唱えれば誰でも救われる」という浄土教の教えの種は、のちに源信(げんしん)の『往生要集』によってさらに深められ、平安時代末期の貴族文化(阿弥陀堂建築など)へと開花します。そして鎌倉時代に入ると、法然や親鸞といった僧侶たちによって巨大な「鎌倉新仏教」へと成長していく、歴史の決定的な端緒となったのです。