1156年、天皇家(後白河天皇 vs 崇徳上皇)のトップ争いに、藤原氏(関白・忠通 vs 弟・頼長)、さらに武士である源氏と平氏それぞれの身内ゲンカが複雑に絡み合って京都で起きた大乱闘です。結果は、平清盛や源義朝を味方につけた後白河天皇側が、奇襲攻撃を成功させてスピード勝利!敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)へ流されました。長年、天皇や貴族の「用心棒」扱いだった武士が、国のトップ争いを武力で解決したことで、武士の存在感が日本中で一気に爆上がりした歴史的なターニングポイントです。
事件の根本的な原因は、天皇家の複雑すぎる人間関係にありました。院政のトップだった鳥羽法皇(とばほうおう)が亡くなると、お兄ちゃんの崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟の後白河天皇(ごしらかわてんのう)の間で「どちらがこれからの政治のトップに立つか!」という激しい権力争いが勃発したのです。崇徳上皇は、父である鳥羽法皇から「お前は本当の子じゃない!」と嫌われ続けて天皇の座を降ろされたため、深い恨みと不満を溜め込んでいました。
この天皇家の兄弟ゲンカに、朝廷のナンバー2である藤原氏(関白の兄・忠通 vs 野心家の弟・頼長)のドロドロした権力争いが合体します。さらに、「どっちに味方すれば俺たち出世できるかな?」と、武士の二大トップブランドである源氏と平氏も参戦。しかも、源氏のお父さんと平氏のおじさんは「上皇側」へ、源氏の息子(源義朝)と平氏の甥っ子(平清盛)は「天皇側」へつくという、血で血を洗う最悪の「家族全部分裂バトル」へと発展してしまったのです!
崇徳上皇側には、身長2メートル以上、左腕が右腕より12センチも長く、とんでもないパワーで弓を引くという伝説の武将・源為朝(みなもとのためとも)がいました。彼は戦の前に「夜中に奇襲をかけて、敵が寝ている間に一気に叩き潰しましょう!」と素晴らしい作戦を提案します。しかし、プライドの高い貴族の藤原頼長は「夜討ちなんて卑怯な真似はできん!堂々と戦え!」とこの作戦を却下。この判断の遅れが、上皇側の命取りとなってしまいます。
一方、後白河天皇側についた源義朝(みなもとのよしとも)も、全く同じ「夜討ち作戦」を提案しました。天皇側はこれを即採用!1156年7月11日の夜明け前、義朝や平清盛(たいらのきよもり)の軍勢は、崇徳上皇たちが立てこもる白河殿(しらかわでん)に一気に奇襲をかけました。風上に回って火を放つというエグい戦法で、お屋敷はあっという間に火の海に。作戦のスピードと武力で圧倒した天皇側が、たった1日で完全勝利を収めました。
戦いに勝ったものの、その後の処罰は地獄のようなものでした。約350年ぶりに「死刑」が復活し、勝った天皇側の武士たちは、負けた上皇側についた「自分の父親や叔父」を自らの手で処刑するよう命じられたのです。源義朝は泣く泣く実の父(為義)の首をはね、平清盛も叔父を処刑しました。政治の世界の非常さを思い知らされる、あまりにも残酷で悲しい身内同士の殺し合いの結末でした。
敗れた崇徳上皇は、讃岐国(現在の香川県)へ島流しにされました。上皇はそこで自分の血で書いたお経(写経)を京都へ送りますが、後白河天皇は「呪いが込められているかもしれない」と受け取りを拒否して突き返しました。これにブチ切れた上皇は「日本国の大魔王となってやる!」と髪も爪も伸ばし放題の天狗のような姿になり、天皇を呪いながら凄絶な死を遂げたと伝えられています。その後、京都で災害や疫病が続いたため、人々は本気で上皇の怨霊を恐れました。
この保元の乱が歴史的に超重要な理由は、朝廷のトップである天皇や貴族たちが「自分たちの揉め事を解決するには、武士の暴力(軍事力)に頼るしかない」と世間に証明してしまったことです。それまで「天皇の番犬」「ただの用心棒」と見下されていた武士たちが、「なんだ、俺たちがいないと国は回らないじゃないか」と自信を持ち始めました。まさに、貴族の時代が終わりを告げ、武士が歴史の主役へと躍り出る「武士の世の始まり」を告げる大事件だったのです。