| 一問一答クイズ [No.11549] | |
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| 制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
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| 出題数 | 3812人中 |
| 正解数 | 3231人 |
| 正解率 | 84.76% |
| 作成者 | 諏訪さま (ID:805) |
| 最高連続正解数 | 0 問 |
| 現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:虎千代
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:②
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:①
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:AB型
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:③
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:④
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:③
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:①
正解:①
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:①
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:問題1 長尾景虎問題2 上杉景虎問題3 勝敗つかず
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。
正解:③
解説:桶狭間の戦いがあったこの「桶狭間」は、現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区有松町の2箇所に古戦場跡があります。はっきりとした場所はわかりませんが、この近辺、もしくは愛知県であると伝えられています。
正解:③
解説:今川義元に一番槍をついた武将は、服部一忠(服部小平太)ですが、ひざを斬られ、一番最初に義元の首をとったのは、毛利新助でした。
正解:①
正解:④
解説:今川軍の戦力・約25,000人に対して、織田軍の戦力は約3000人と言われています。織田軍の奇襲攻撃により、総大将の今川義元は戦死しました。
正解:①
解説:桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦です。
正解:③
解説:沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現在:愛知県豊明市沓掛町)にあった城です。現在は、「沓掛城址公園」として城跡が残っています。
正解:③
正解:①
解説:今川義元が討たれた場所は桶狭間の中の「田楽狭間」と言われていることから、この名が別名となっています。
正解:④
解説:今川義元が京へ上洛するためといわれていますが、いくつかの説があるのでないかと言われています。
正解:42歳
正解:①