| 一問一答クイズ [No.26072] | |
|---|---|
|
|
|
|
|
|
| 制限時間 : 無制限 | |
| 難易度 | |
| 出題数 | 1710人中 |
| 正解数 | 703人 |
| 正解率 | 41.11% |
| 作成者 | アゲハント (ID:14151) |
| 最高連続正解数 | 0 問 |
| 現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:④
正解:②
正解:④
正解:①
正解:④
正解:②
正解:④
正解:④
正解:④
正解:井伊直弼(いい なおすけ)
正解:③
正解:③
正解:③
正解:②
正解:函館
正解:③
正解:徳川家綱
正解:③
正解:徳川吉宗
正解:③
正解:④
正解:②
正解:③
正解:①
正解:③
解説:防人は、大化の改新の後、朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に大敗したことを機に設置された軍事制度です。九州沿岸の防衛のために設置されました。
正解:風林火山
解説:答えは風林火山です。意味は「風のように速く、林のように静かに、火のように侵略し、山のように動じず」
正解:応仁の乱(おうにんのらん)
正解:持明院統
正解:suikotennnou
正解:②
解説:1180年、平重衡の軍が南都を攻略し、東大寺、興福寺が焼失しました。
正解:③
解説:61歳にして東大寺勧進職につき、復興を果たしました。
正解:陰・雷
正解:④
解説:岩倉遣米欧使節団の主なメンバーは、岩倉具視、木戸孝良、伊藤博文、大久保利通、山口尚房の5人。 随行した留学生として津田梅子、久米邦武、中江兆民らがいる。
正解:②
解説:佐賀の乱での中心士族は江藤新平(前参議)。なお、福岡では宮崎車之助を中心に秋月の乱が起きている。
正解:④
解説:カラーテレビは三種の神器ではなく、3Cの一つです
正解:④
解説:第一次オイルショックの引き金になったのが、第四次中東戦争。OPECは原油価格を引き上げ、石油価格が高騰しました。翌年には、戦後初の経済成長率マイナスを記録しています。 第二次オイルショックの原因はイラン革命です。
正解:小磯国昭
正解:②
解説:1回目の蝦夷征討が788年に紀古佐美が征東大使として、2回目が794年に大伴弟麻呂が征夷大将軍として派遣。これが征夷大将軍の初見である。ちなみに2回目の時の副将軍が坂上田村麻呂。更に3回目の派遣のときに田村麻呂が征夷大将軍になっている。
正解:仲恭天皇
解説:承久の乱で当時天皇だったが、まだ幼少であり即位式も挙げていない状況で廃位されたので九条廃帝、又は半帝と呼ばれていた。
正解:②
解説:後白河法皇を脅して無理やり任命させた。
正解:葛城王
解説:選択肢の中で葛城王(橘諸兄)以外は知太政官事に就任している。職封は右大臣に準じていた。ちなみに鈴鹿王は長屋王の弟であり、藤原四氏没後に知太政官事に就任し、橘諸兄の政権運営に協力した。
正解:源頼朝
解説:頼朝は権大納言が最高位。あとの方々は右大臣が最高位。ただし菅原道真は死後に怨霊思想によって右大臣に復職し、その後太政大臣にまで昇進した。
正解:①
解説:守貞親王は承久の乱後、鎌倉幕府の要請で、院(治天)となり、子の茂仁親王が後堀河天皇として即位した。この時代は院−天皇という構造が当たり前となっており、承久の乱で院(治天)の後鳥羽、及び天皇の仲恭が共に廃されたので、もとに戻すべくしたもの。しかし天皇経験者の上皇は後鳥羽・土御門・順徳が配流になったため、仕方なく守貞親王を後高倉院として立てた。
正解:①
解説:和同開珎は銅貨と銀貨の2種類発行された。
正解:二条斉敬
解説:二条斉敬は幕末明治の公卿。ちなみに彼は関白(孝明)・摂政(明治)の最後となる。ちなみにその後大正天皇の摂政宮となった裕仁親王(昭和天皇)があるが、これは明治憲法下であり、それ以前とは性質が異なる。
正解:②
解説:足利尊氏だけ「義」の字がありません。
正解:②
解説:源氏3人、摂家2人、皇族4人の全部で9人です。
正解:毛利元就
正解:②
正解:④
正解:④
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:長野県
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:②
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:④
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:④
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:長尾虎重
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:②
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:①
正解:④
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:②
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:②
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:①
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。