| 一問一答クイズ [No.11541] | |
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| 制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
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| 出題数 | 3799人中 |
| 正解数 | 3078人 |
| 正解率 | 81.02% |
| 作成者 | 諏訪さま (ID:805) |
| 最高連続正解数 | 0 問 |
| 現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:③
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:④
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:①
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:②
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:③
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:④
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:②
正解:③
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:①
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:③
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:③
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。
正解:③
解説:通称「アメリカ彦蔵」です。
正解:②
解説:伊達政宗は鮭の皮が大好物で「一寸の鮭の皮を持ってきたら褒美をやろう!」といったこともあるとか。政宗はかなりの食通で客人が来たときはわざわざ自分の手料理を出してもてなしたという言い伝えもあります。
正解:アンコールワット
解説:森元一房という武士がアンコールワットの柱に落書きをしました。「寛永九年正月初めてここに来る。生国は日本。肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房。 御堂を志し数千里の海上を渡り 一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために ここに仏四体を奉るものなり・・・(以下略)」と書いてあるそうです。一房が書いた落書きは全部で3か所です。
正解:④
正解:①
解説:風呂で転ぶ→怪我をする→怪我をして出来たかさぶたをはがす→そこから菌が侵入→死亡…
正解:①
解説:1908年2月1日、ポルトガル国王 カルロス1世が、コメルシオ広場付近を馬車で通りかかった時、急進的共和主義者の民衆が襲撃したことにより、父王は即死した。 この時点で、王位は法定推定相続人であるルイス・フィリペが継承したことになるが、彼もまた襲撃された際に重傷で約20分後に崩御した。その為、ルイス・フィリペが王位に就いていた期間が約20分間となり、世界一在位していた時間の短い君主となってしまった。 ちなみに父カルルシュ1世(カルロス1世)の在位は、1889年10月19日 - 1908年2月1日の約9年である。
正解:③
解説:同性愛者のカップル150組300人で構成されており、お互いを守るために必死に戦っていたため、戦力は高めだったそうです。
正解:④
正解:③
正解:①