| 一問一答クイズ [No.11504] | |
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| 制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
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| 出題数 | 4209人中 |
| 正解数 | 2377人 |
| 正解率 | 56.47% |
| 作成者 | とくとく (ID:777) |
| 最高連続正解数 | 0 問 |
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正解:④
解説:1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家(前田利家、佐久間盛政)の戦いです。軍勢は、秀吉軍の50,000vs柴田軍の30,000。結果、秀吉が勝利して、「本能寺の変」後の信長後継者を決定付けました。ちなみにこの戦地は現在の滋賀県伊香郡の賤ヶ岳附近です。
正解:③
解説:豊臣秀吉は、木下藤吉郎→秀吉→羽柴秀吉の順で名前を変えました。
正解:③
解説:秀吉の妻・ねね(おね、ね、ねい)は、尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれました。のちに高台院(こうだい いん)、北政所(きた の まんどころ)と呼ばれます。
正解:④
正解:④
解説:小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)に羽柴秀吉と織田・徳川連合軍の間で行われた戦いです。戦力は、秀吉軍約110,000vs織田・徳川連合軍約18,000。結果は織田・徳川連合軍が優勢でしたが、秀吉が信雄に和睦を申し入れ、織田信雄がこれを受けたことにより幕を閉じました。
正解:②
解説:秀吉が関白になるために前関白だった公家の近衛前久(このえさきひさ)の養子(猶子)になりました。猶子(ゆうし)とは、養育の義務のない養子のことです。
正解:③
解説:秀吉の血液型は、残っていた遺品・血判状から判明しました。
正解:②
解説:豊臣 秀頼(とよとみひでより)は、秀吉が57歳の時の子供です。1593年(文禄2年)に大坂城で誕生しました。
正解:③
解説:1583年・賤ヶ岳の戦い→1584年・小牧・長久手の戦い→1586年・九州征伐→1590年・小田原の役となります。よって、一番後に起こった戦いは1590年・小田原の役となります。ちなみに小田原の役は、豊臣秀吉と北条氏政が戦った戦で秀吉の勝利となりました。
正解:②
解説:真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて真田幸村(信繁)に仕えたとされる10人の家臣のことです。小説など登場していますが、人物は実在と架空がおります。
正解:六文銭(ろくもんせん)
解説:真田幸村(信繁)の旗印である六文銭(ろくもんせん)は、亡くなった人を葬る時、棺に入れる冥銭(めいせん)を表しているといわれています。この六文は三途の川の渡し賃となるようです。ちなみに永楽通宝(えいらくつうほう)は、織田信長です。
正解:④
解説:本名は真田源次郎信繁 (さなだげんじろうのぶしげ)です。真田幸村(さなだ ゆきむら)という名前は、彼の死後に小説などの作品で使われた名前です。
正解:②
正解:③
解説:真田幸村(信繁)の父・真田昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた武将です。信濃国の上田城での上田合戦(うえだかっせん)では、2度にわたって徳川軍を撃退したことで有名です。
正解:④
解説:九度山(くどやま)は、和歌山県北部に位置する町。関ケ原の合戦で敗れて、九度山に蟄居させられます。この町には伝説といわれる「真田のぬけ穴」などがあり、真田親子とのつながりの深い場所です。
正解:④
解説:幸村(信繁)は、豊臣秀頼の参戦依頼を受けて、大坂冬の陣に出兵します。この時、使者は黄金200枚、銀30貫を持参したといわれています。
正解:①
解説:「真田の赤備え(あかぞなえ)」といわれ、真田軍は赤の鎧(よろい)で統一しました。
正解:③
正解:①