戦国時代検定 〜玄人級〜 | |||
| 応仁の乱から島原の乱までを出題範囲としている為、広範囲かつ詳細な知識が必要です。我こそはと思う方は是非とも参加して下さい。 | |||
| 難易度 | |||
| 合格点 | 3問正解/5問中 上級:8問正解/10問中 | ||
| 制限時間 | 5分以内 | ||
| クイズ登録数 | 全59問 | ||
| 受験者数 | 2464人 | ||
| 合格者数 | 418人 | ||
| 合格率 | 16.96% |
||
| 作成者 | 志々伎 (ID:10300) | ||
|
|
正解:②
解説:納は叛乱によって囲を自害に追い込み、嫡男の宇久盛定は平戸に逃れた。後に盛定は平戸松浦家の後援で再起し、納を討伐して自害させた。※玉之浦像は納の父、奈留続は囲の弟、奈留盛信は続の嫡男で盛定死後に叛乱を起こした。
正解:③
解説:改易後、入部してきた小早川秀包と争い一旦は和睦したが和議の席で息子の良巴と共に謀殺された。
正解:①
解説:「浮木」などを著して有職故実に通じていた。清水谷家は西園寺支流。※冷泉家は藤原御子左流で後に上と下の二家に別れた。澤家は清原流。徳大寺家は藤原閑院流。
正解:①
解説:父は朽木元綱で宣綱自身は江戸幕府の旗本を務めた。弟の稙綱が大名に取り立てられた為、宗家と分家で家格が逆転する事態となった。
正解:②
解説:これは先祖の宣誓書に七代もの間、謀反を起こさないという内容の為であった。反抗が頑強であったが後に重泰は暗殺された。
正解:①
解説:他に「羅漢図」、「芦雁図」が伝わっている。※白岩、溝延はいずれも寒河江家臣。吉川元綱の子である高基は寒河江家の当主となった。
正解:②
解説:断層が天然の要害となった為、撃退に成功した。これにより、北部は南部と違い全滅を免れた。その後、反乱軍は原城に籠城して壊滅した。
正解:②
解説:父の在治も九条家の家令を務めた。その後、1489年に死去すると子の在数は九条家の主導権を握ろうとしていた。この為、九条親子と対立して殺害された。事件後、九条親子は勅勘を受けたが1498年に解除された。ヒントの一色昭孝は別名を唐橋在通。
正解:③
解説:三田井氏は大神惟基の末裔とされ、天孫降臨の伝承とも関わりがあった。戦国期は三田井親武が有名であるが豊臣秀吉が九州を平定すると高橋氏に所領を与えられ、後に讒言で三田井氏は滅んだ。ヒントの甲斐宗摂は甲斐宗運の庶子で三田井家に仕えたが高橋氏に通じて滅亡の原因を作った。
正解:①
解説:武田信縄の弟で兄が家督を継承すると父の信昌が信恵を当主にすることを望んだ為、内紛が勃発し信虎の代まで武田家が荒廃する原因となった。
正解:④
解説:娘が伊東尹祐に嫁いで世継ぎを産んだ為、外戚として権勢を奮ったが家中から反発を買い、後に伊東祐武から殺害された。
正解:①
解説:古河姉小路家の当主で当時、小島姉小路家・向姉小路家など国司が乱立していた。和歌に精通していた事が評価されている。※之綱は向家、勝言は小島家、済俊は孫にあたる。
正解:①
解説:興藤の滅亡後、神主家は佐伯景教の系統へと移行した。棚守房顕はそれの補佐にあたった。藤原興親は興藤の先代で死後に内紛が勃発した。

正解:①
解説:大内政弘に仕えて応仁の乱でも活躍した。肖像画自体は1465年の作品。
正解:①
解説:他に河匂荘の代官を務めた。※宗綱は貞綱と道綱の父、吉良義尭は西条吉良家の当主、吉良持広は東条吉良家の当主。
正解:③
解説:先に兄の順弘が当主となるも殺害された為、家督を相続した。※順賢・順興は子孫。
正解:④
解説:動機は将軍擁立を巡っての確執とされる。※丈六寺は新開実綱の暗殺地。法輪寺は1582年に兵火で焼失。熊谷寺の読みはくまだにじ。
正解:④
解説:筌ノ口重範が大内家に仕えた、他に霊泉寺を建立した。
正解:①
解説:通直(弾正少弼)は娘婿を当主に迎えようとした為、家臣や親族から反発を受けた。
正解:②
解説:鹿苑寺は金閣が有名、慈照寺は銀閣、竜安寺は枯山水庭園、清水寺は舞台や音羽の滝が有名である。
正解:③
解説:管領を務めた。ヒントの1531年は大物崩れと言われる合戦でこの戦いに敗れた高国は捕らえられて自害させられた。※晴国は高国の弟、稙国は高国の子、政賢は高国の舅。
正解:①
解説:最上八楯は出羽国の国人連合の事で最上八楯の構成は天童氏・延沢氏・飯田氏・尾花沢氏・楯岡氏・長瀞氏・六田氏・成生氏である。
正解:②
解説:前名は宍戸家俊で宍戸隆家の大叔父にあたる。
正解:②
解説:通称:蔵人、タイ捨流を創始した剣豪。
正解:②
解説:他に「守武千句」がある。伊勢神宮祠官を務めた。
正解:③
解説:肥前有馬の出身。三条西実隆から古典などを学んだ。
正解:④
解説:田村隆顕の伯父にあたる。
正解:③
解説:主家改易の際に自害した。子孫は後に川添氏を名乗った。
正解:①
解説:他に塩津留氏なども送っていた。
正解:①
正解:①
正解:①
解説:足利高基の次男で後に家臣から追われて上総宮原に移住した。
正解:③
正解:③
解説:順如、蓮乗、蓮綱、蓮誓、実如、蓮淳、蓮悟、蓮芸、実賢、実悟、実順、実孝、実従の13人。実従に至っては84歳(死ぬ前年)の時に出来た子供である。
正解:③
正解:③
正解:③
解説:武田信実は若狭武田家の出身で他は安芸武田家の関係者。
正解:②
正解:①
正解:②
正解:③
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:②
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:④
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:③
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:④
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:②
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:①
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:①
正解:④
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:④
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:①
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:②
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。
| 順位 | ユーザー名 | 回答(問) | 正解(問) | 経過タイム | 合否 | コメント |
| 1 位 | 昭ちゃん | 10 | 10 | 00:00:41 | ||
| 2 位 | のぞ | 10 | 5 | 00:01:24 | ||
| 3 位 | 武者之幸司 | 10 | 4 | 00:02:15 | ||
| 4 位 | 亀陸 | 10 | 3 | 00:01:48 | ||
| 5 位 | notio | 10 | 3 | 00:01:48 | ||
| 6 位 | うちなー雪冬 | 10 | 3 | 00:02:22 | ||
| 7 位 | NAOIE | 10 | 3 | 00:04:18 | ||
| 8 位 | ゴールドアイ | 5 | 2 | 00:00:39 | ||
| 9 位 | yuit | 10 | 2 | 00:00:57 | ||
| 10 位 | 城元号 | 5 | 2 | 00:01:29 | ||
| 11 位 | bud | 10 | 2 | 00:01:42 | ||
| 12 位 | ビール | 5 | 2 | 00:02:08 | ||
| 13 位 | tarata | 10 | 1 | 00:01:26 | ||
| 14 位 | くろ | 10 | 1 | 00:35:52 | ||
| 15 位 | Goder | 10 | 0 | 00:01:15 | ||
| 16 位 | 山内マン | 5 | 0 | 00:01:23 | ||
| 17 位 | ぴょるこ | 10 | 0 | 00:02:13 | ||