| 一問一答クイズ [No.12529] | |
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| 制限時間 : 無制限 | ノーヒント! |
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| 出題数 | 3084人中 |
| 正解数 | 1688人 |
| 正解率 | 54.73% |
| 作成者 | オジンくん (ID:38) |
| 最高連続正解数 | 0 問 |
| 現在の連続記録 | 0 問 ※ユーザーの方は記録が更新されます |
正解:③
解説:元々、江戸時代の銭湯は男女混浴だったそうですが、後に禁止されます。銭湯には、垢すりや髪すきなどをしてくれる男性がいてくれて、女性も恥ずかしがることもなく頼んでいたそうです。当初は湯女(ゆな)という女性もいましたが禁止され、男性の三助(さんすけ)が残りました。現代では考えられない制度ですが男性にとってはうらやましい仕事です・・・。
正解:④
解説:「斬捨御免(きりすてごめん)」は、武士が無礼を受けた場合は斬殺しても処罰されないという江戸時代の制度。万が一、武士が刀を抜いた時に相手に逃げられたり、相手から無礼を受けたことを証明できない場合は、切腹もしくは斬首刑、武士の身分を剥奪などの厳しい処分がありました。なので、実際のところは武士が町人、百姓を斬捨てるということはなかったそうです。
正解:②
正解:①
正解:①
正解:①
解説:答えは「ウーロン茶」です。日本の国内でが飲まれ始めたのは明治時代に入ってからです。
正解:④
正解:訛り(なまり)・方言を隠すため
解説:語尾に「〜でありんす」、自分のことを「あちき」と言ったりする言葉を郭言葉(くるわことば)と言います。吉原など花街の遊女や花魁(おいらん)は、地方の出身者が多く、自分の生まれた地方の訛り(方言)を隠すためだったようです。
正解:①
正解:②
解説:江戸時代初期の頃、男性(武士)の間でヒゲを生やすことが大流行します。あまりの流行に風紀を乱すと考えた江戸幕府は、武士(但し老人は除く)に対してヒゲを生やすことを禁止する「大ヒゲ禁止令」を発令します。それ以降、ヒゲを生やした武士はほとんど見られなりました。
正解:①
解説:キスは漢字で書くと「鱚」で、喜ぶという漢字が入っているので縁起がいいとされた。
正解:湯屋
解説:元木網(1724〜1811)は、江戸中期の狂歌師で、本名渡辺正雄。江戸京橋北紺屋町で湯屋をしており、大野屋喜三郎と称した。特に天明年間に活躍し、天明狂歌四天王の一人馬場金埒などを育てた。文化8(1811)年没 享年88。
正解:②
解説:遊軒は熊沢蕃山、甘谷は山東京伝、芳宜は国学者加藤千蔭の雅号。
正解:細川重賢
解説:細川重賢(1721〜1785)は熊本藩6代藩主です。堀勝名や蒲池正定などを奉行として、藩政改革を成功させ、上杉鷹山とともに名君として知られています。3つの逸話は、相撲観戦禁止のきっかけとなったのが、相撲ファンだった京極高朗、消防訓練マニアの浅野長矩は、本所の大名火消しで、江戸一と称えられました。徳川吉通は水泳が得意で、あるとき家臣に、巨大なプールを作らせた際、「水温が低い。」と言って温めさせたのだそうです。
正解:④
解説:浅野長矩は従五位です。なので、殿中席は五位の外様大名用の柳之間になります。溜之間は、大阪城代や京都所司代などの役職の人物、雁、菊之間は古参以外の譜代の大名が使用していたそうです。
正解:②
解説:他の三座はすべて歌舞伎座。朝日座と浪花座は幕末の道頓堀五座と呼ばれた。中村座は江戸三座の一つで、寛永期から200年余り続いた。
正解:徳川家重
正解:②
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:②
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:①
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:③
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:①
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:長尾虎重
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:長尾為景
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:①
正解:②
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:③
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:③
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:①
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。