718年(養老2年)、日本の政治を牽引していた藤原不比等(ふじわらのふひと)は、以前に自ら関わった大宝律令(たいほうりつりょう)をさらに使いやすくするための法改正に取り掛かっていました。社会が変化し、古い法律では対応しきれない部分が出てきたためです。不比等は学者たちを集め、文字の誤りを正し、分かりにくい表現を現代風に手直しして新しい法典を完成させました。これが養老律令の原型です。
しかし、この新しい法律がすぐに世に出ることはありませんでした。編纂からわずか2年後の720年に、中心人物であった不比等が病でこの世を去ってしまったからです。その後、政治の実権は皇族の長屋王(ながやおう)に移りました。長屋王は藤原氏の勢力が強くなることを警戒しており、不比等が作った法律をあえて施行しなかったとも言われています。こうして、完成したはずの養老律令は朝廷の書庫で長い眠りにつくことになりました。
それから約40年の歳月が流れた奈良時代の中頃。政治の中心には、不比等の孫にあたる藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)という野心に満ちた人物が台頭していました。彼は孝謙天皇(こうけんてんのう)とその母である光明皇太后から絶大な信頼を受け、朝廷内で急速に権力を拡大していきます。仲麻呂は、自分の権力基盤をさらに確固たるものにするため、偉大な祖父が残した「ある遺産」に目をつけました。
757年、仲麻呂は突如として「祖父・不比等様が作った養老律令を、これからの国家の基本法として施行する!」と宣言しました。実に39年ぶりのお蔵出しです。内容自体は大宝律令と大きな違いはありませんでしたが、あえて「藤原氏の祖先が作った法律」を復活させることで、自分が政治の正当な後継者であることを世間に強くアピールする狙いがありました。法典の施行は、仲麻呂による壮大な政治的パフォーマンスだったのです。
この法律は、犯罪に対する刑罰のルールを定めた「律(りつ)」が10巻、国や役所の仕組み、税金などの行政ルールを定めた「令(りょう)」が10巻の全20巻で構成されていました。大宝律令をベースにしながらも、表現が簡潔になり、役人の定員が現状に合わせて調整されるなど、より実用的な内容へとブラッシュアップされていました。天皇を中心とする律令国家のシステムを、よりスムーズに運営するためのバージョンアップ版と言えます。
しかし、この仲麻呂の強引なやり方に強い不満を持つ者たちもいました。特に、かつて政治のトップに立っていた橘諸兄(たちばなのもろえ)の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、「仲麻呂は天皇を操り、政治を私物化している」と激しい怒りを抱いていました。養老律令の施行は、藤原氏への権力集中を決定づけるものであり、反藤原氏の貴族たちにとって、もはや一刻の猶予も許されない絶望的な状況を作り出してしまったのです。
養老律令が施行されたのと同じ757年、ついに不満が爆発します。橘奈良麻呂は、仲麻呂を暗殺して天皇を廃位しようとする大規模なクーデターを計画しました。これが「橘奈良麻呂の乱」です。しかし、計画は事前に密告されて失敗に終わります。仲麻呂は激怒し、奈良麻呂をはじめとする反対派の貴族たち数百人を次々と捕らえ、容赦なく処刑や流罪にしました。この冷酷な大粛清によって、仲麻呂の前に立ちはだかる政敵は完全に姿を消すことになります。
反対派を一掃し、誰も逆らえない絶対的な権力を手に入れた仲麻呂は、天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」という特別な名前を与えられました。「恵み深く、戦いに勝つ」という意味の最高の誉れです。さらに、お金を自分で作る権利(鋳銭権)など、天皇にも等しい特権を次々と手に入れました。祖父の養老律令を利用して権力の頂点へと上り詰めた彼は、奈良時代の政治を完全に自分の思い通りに動かす独裁者としての絶頂期を謳歌することになります。
実は、日本で最初の本格的な法律である大宝律令は、その後に文章が失われてしまい、現在には一部しか残っていません。私たちが古代日本の法律の詳しい中身を知ることができるのは、のちの平安時代にこの養老律令の解説書である『令義解(りょうのぎげ)』などが作られ、現代まで大切に保管されてきたおかげなのです。お蔵入りから奇跡の復活を遂げたこの法典は、古代日本の姿を現代に伝える極めて貴重な歴史のタイムカプセルとしての役割も果たしています。
養老律令の施行は、単なる法律の切り替えという実務的な出来事ではありません。それは、藤原不比等から孫の仲麻呂へと受け継がれた「藤原氏による国家支配」の完成を象徴する出来事でした。この法典はその後、平安時代を通じて長く日本の基本法として使われ続け、律令制度の骨格を支え続けます。この施行は、藤原氏が他氏を排斥して政治の実権を握っていく流れを決定づけ、その後の日本政治のあり方を方向付ける歴史の重要な分岐点となったのです。