古代最大の内乱である壬申の乱(じんしんのらん)に勝利し、絶大な権力を握った天武天皇(てんむてんのう)。彼は、大国である唐(中国)に負けない強い日本を創り上げるためには、天皇を中心とした強力な政治体制が必要だと考えていました。そのためには、豪族たちの曖昧なルールや古い慣習ではなく、国家のすべてを管理するための絶対的な「法律」が必要不可欠でした。そこで天武天皇は、国家の基本となる新しい法典の作成という巨大なプロジェクトを立ち上げたのです。
当時、日本にはすでに天智天皇の時代に作られたとされる「近江令(おうみりょう)」がありました。しかし、天武天皇は「これではまだ不十分だ」と考えました。681年、彼は自らの理想とする国づくりを実現するため、皇族や優秀な役人たちを集めて、より緻密で本格的な新しい法律の編纂(へんさん)を命じます。天皇の命令は絶対であり、国家の威信をかけた壮大な法典作りが、新たな都である飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で昼夜を問わず進められていきました。
新しい法律の編纂作業は、想像を絶する困難な道のりでした。唐の優れた法律を参考にしながらも、それをそのまま真似するのではなく、日本の風土や伝統に合った独自のルールへと作り変えなければならなかったからです。役人たちは膨大な資料を読み込み、役所の仕組みや税金の取り立て方など、国家を動かすためのあらゆるルールを徹底的に議論しました。しかし、完璧な法典を目指すあまり、作業は予定よりも大幅に長引いてしまうことになります。
法典の完成が間近に迫っていた686年、プロジェクトを力強く牽引してきた天武天皇が、病により志半ばでこの世を去ってしまいます。絶対的なリーダーの死により、法律の編纂作業は一時的に暗礁に乗り上げかけました。しかし、ここで立ち上がったのが、天武天皇の妻であった持統天皇(じとうてんのう)です。「夫が夢見た強い国づくりを、私が必ず成し遂げてみせる」。彼女は夫の遺志を固く引き継ぎ、悲しみを乗り越えて法典の完成に向けて再び強力なリーダーシップを発揮し始めました。
持統天皇の厳しい監督のもと、編纂作業は急ピッチで進められました。彼女は夫が思い描いた天皇中心の国家システムを法的に裏付けるため、役人たちに一切の妥協を許しませんでした。そして天武天皇の死から3年後、ついに新しい法典が形になります。夫の情熱と妻の執念が結実し、日本の歴史を動かす新しいルールブックが、いよいよ世に放たれる準備が整ったのです。それは、飛鳥時代の政治を根本から変える歴史の重要な分岐点へと繋がっていきました。
689年、持統天皇の命により、ついに飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が全国の役所に向けて配布(施行)されました。全22巻からなるこの法典は、役所の組織づくりや役人のルール、税金や戸籍の仕組みなど、国家を行政的に運営するための「令(りょう)」をまとめたものでした。これにより、豪族たちが土地や人民をバラバラに支配していた古い体制は終わりを告げ、天皇の定める法律によって全国が一元的に管理される新しい時代が幕を開けたのです。
実は、この飛鳥浄御原令の原本は現代には一つも残されていません。そのため、具体的な条文のすべてを知ることはできませんが、後の時代に作られた法律の記録などから、その内容が推測されています。例えば、役人の位(官位)の制度が細かく整えられたことや、地方を治めるための行政区分(国・評・里など)が明確にされたことなどが分かっています。記録が失われても、この法典が日本の骨格を作ったという事実は、歴史の証拠として確かに刻まれているのです。
この法律が施行された翌年の690年、持統天皇は飛鳥浄御原令の規定に基づき、全国規模の本格的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」を作成させました。これは、天智天皇が作った最初の戸籍(庚午年籍)をさらに進化させたもので、なんと「6年に1度、必ず戸籍を作り直す」という厳格なルールが定められていました。これにより、国は民衆の数を正確に把握して確実に税金を取り立てるシステムを完成させ、国家の財政基盤を盤石なものにしたのです。
飛鳥浄御原令は、日本の法律の歴史において非常に大きな一歩でしたが、実は「未完成」の法典でもありました。行政のルールである「令」は完成しましたが、犯罪に対する刑罰のルールである「律(りつ)」は一緒に制定されなかったと考えられています。そのため、刑罰については古いルールや独自の判断に頼らざるを得ない部分が残されていました。しかし、この「令」の完成こそが、次なる完璧な法典を生み出すための絶対に必要な土台となったのです。
飛鳥浄御原令の施行から約10年後、この法典をベースとして、ついに刑罰の「律」も備えた日本初の本格的な法律大宝律令(たいほうりつりょう)が完成します。天武天皇と持統天皇が心血を注いだ飛鳥浄御原令は、天皇を中心とする強力な律令国家(りつりょうこっか)を建設するための決定的な契機となりました。夫婦の壮大な夢が込められたこの法典は、古代日本の形を決定づけ、その後の長い歴史の端緒を開いた記念碑的な存在なのです。