奈良時代の日本には「僧侶になれば税金を払わなくてよい」という法律の抜け穴があり、勝手に髪を剃って僧侶になるニセモノが急増していました。この乱れを正すためには、僧侶になるための正式なルールである戒律(かいりつ)を教え、免許を与えることができる高僧が必要でした。しかし、当時の日本にはその資格を持つ正式な僧侶が一人もいなかったため、中国(唐)から本物の偉いお坊さんを招く必要があったのです。
「どうか日本に正しい仏教を伝えてください」。日本政府の特命を受けた若い僧侶の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、命がけで海を渡り、唐の国へと向かいました。彼らは唐で10年近くも高僧を探し回り、ついに仏教界のトップクラスの超大物である鑑真(がんじん)にたどり着きます。二人は鑑真の前で涙を流しながら日本の仏教の危機を訴え、どうか日本へ来てほしいと必死にスカウトを行いました。
二人の熱意に打たれた鑑真は、弟子たちに「誰か日本へ行く者はいないか」と問いかけました。しかし、当時は船で海を渡る技術が低く、日本への航海は死ぬ確率が非常に高い命がけの旅です。弟子たちは皆、下を向いて黙り込んでしまいました。すると鑑真は「仏法のためならば、自分の命など少しも惜しくはない。誰も行かないのなら、私自身が行こう!」と宣言します。当時55歳という高齢での、驚くべき大決断でした。
こうして鑑真の日本への挑戦が始まりましたが、その道のりは苦難の連続でした。1回目は、準備中に日本人の僧侶が「彼らは海賊だ」と嘘の密告をしたため、船を没収されて失敗します。2回目は、出航した直後に激しい嵐に襲われて船がボロボロになり、引き返すことになりました。さらに、鑑真を唐から出したくない弟子たちが役所に密告するなど、身内からの激しい妨害にも遭い、3回目と4回目の試みも失敗に終わってしまいます。
それでも鑑真は諦めません。748年、5回目の挑戦でついに船を出しますが、途中ですさまじい暴風雨に襲われて漂流してしまいます。飲み水も底をつく過酷な日々を耐え抜き、流れ着いたのは日本とは逆方向の中国の南の果て(海南島)でした。ここから1年以上かけて故郷へ戻る途中、日本から来た愛弟子の栄叡が病で亡くなってしまいます。あまりの悲しみと厳しい旅の疲れから、鑑真はついに両目の視力を完全に失ってしまいました。
目が見えなくなっても、鑑真の日本へ行くという強い意志が揺らぐことはありませんでした。最初の決意から12年後の753年、ついに6回目のチャンスが訪れます。日本からやってきた遣唐使(けんとうし)の船の帰りの便に、こっそりと乗り込むことに成功したのです。役人の目を盗んでの密航という危険な賭けでしたが、船は無事に唐を出発しました。激しい波を乗り越え、鑑真はついに日本の薩摩国(鹿児島県)へと到着を果たしたのです。
日本の土を踏んだ時、鑑真はすでに66歳になっていました。目が見えない偉大な僧侶の来日に、日本中が大喜びします。翌年、鑑真は日本の首都である平城京(へいじょうきょう)に迎え入れられました。そして、日本の巨大なシンボルである東大寺において、聖武太上天皇(元・聖武天皇)をはじめとする約400人の人々に、日本で初めてとなる正式な戒律を授けました。これによって、日本の仏教の秩序はようやく正しい姿を取り戻したのです。
その後、鑑真は朝廷から大和上(だいわじょう)という最高の位を与えられ、日本の仏教界のトップに立ちました。彼がもたらしたのは仏教のルールだけではありません。仏像などの美しい芸術品や、最新の医学知識、薬草の知識なども一緒に日本へ伝えてくれました。特に鑑真がもたらした唐の最新文化は、奈良時代の国際豊かで華やかな天平文化(てんぴょうぶんか)に多大な影響を与え、日本の文明を一段階レベルアップさせたのです。
晩年、鑑真は天皇から与えられた土地に自らの理想とするお寺を建てました。これが現在も奈良県に残る世界遺産・唐招提寺(とうしょうだいじ)です。鑑真はこの寺で多くの弟子たちに正式な仏教の教えを伝え続け、763年に76歳で静かにこの世を去りました。何度も命の危機に直面し、光を失いながらも、日本のために生涯を捧げた彼の不屈の精神は、今も唐招提寺の奥で座り続ける鑑真の彫刻(鑑真和上坐像)から力強く感じ取ることができます。
鑑真の来日は、日本の歴史において計り知れないほど大きな意味を持っています。彼が命がけで戒律を伝えたことによって、日本の仏教は初めて国家に認められた正式な宗教として完成し、その後の平安時代や鎌倉時代の仏教発展のための強固な土台が築かれました。単なるお坊さんの移動ではなく、日本という国の文化と精神の基盤を確立し、大陸の進んだ文明を根付かせるための、歴史の決定的な契機となった偉大な出来事なのです。