奈良時代、日本の仏教には僧侶になるための正式なルール(戒律:かいりつ)を授ける資格を持つ人がいませんでした。税金逃れのために勝手に僧侶を名乗る者が急増し、朝廷の政治や財政を圧迫して困り果てていました。「中国(唐)から正式なルールを教えられる高僧を招こう!」。その重大な使命を帯びて、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という二人の若い日本人僧侶が、命がけで荒波を越えて唐へと渡りました。
唐に渡った二人は、中国全土で多くの僧侶から尊敬を集める超一流のトップエリート僧、鑑真(がんじん)に教えを請います。「日本に仏教のルールを伝えにきてください!」。しかし、当時の東シナ海の航海は命がけです。鑑真の弟子たちは危険を恐れて誰一人として日本へ行こうとはしません。すると鑑真は、「仏法を伝えるためなら命は惜しくない。誰も行かないなら、私自身が日本へ行こう」と、なんと自ら渡航を決意してくれたのです。
しかし、日本への道のりは想像を絶する過酷なものでした。船が出航前に難破したり、海賊に襲われたり、さらには「鑑真様のような偉大な宝を外国へ出すわけにはいかない」と唐の役人に密告されて引き止められたりと、失敗の連続でした。何度も海に投げ出され、過酷な旅の中で日本からの使者である栄叡は病に倒れて無念のまま命を落としてしまいます。それでも鑑真の「日本へ行く」という固い決意は全く揺るぎませんでした。
5回目の挑戦も激しい嵐に巻き込まれ、船はなんと南の果ての海南島(かいなんとう)まで流されてしまいます。長引く旅の過労と、南方の強烈な気候が鑑真の体を蝕みました。さらに、潮風と感染症の影響で、鑑真はついに両目の視力を完全に失ってしまうという最大の悲劇に見舞われます。光を失い、愛する多くの弟子を亡くしてもなお、鑑真の心の中にある「日本へ教えを届ける」という情熱の炎は決して消えませんでした。
最初の決意から実に12年の歳月が流れました。753年、遣唐使の帰りの船にこっそりと乗り込んだ鑑真は、6回目の挑戦にしてついに奇跡的に日本の土を踏むことに成功します。盲目となった66歳の老僧の来日に、聖武太上天皇(しょうむだいじょうてんのう)をはじめとする日本の人々は大熱狂で彼を迎え入れました。鑑真の不屈の精神は、国境を越えて多くの日本人の心を深く打ち、仏教の新しい風を吹き込んだのです。
日本の都である平城京に迎えられた鑑真は、東大寺(とうだいじ)の大仏殿の前に、僧侶になるための儀式を行う特別なステージ(戒壇:かいだん)を築きました。そして、大仏を造った聖武太上天皇や光明皇太后をはじめ、約400人もの人々に正式なルールである戒律を授けました。これにより、日本の仏教は初めて国際的にも認められる正式な制度となり、国家を支える仏教として正しく機能する端緒を開いたのです。
東大寺で数年間教えを広めた後、759年に鑑真は朝廷から現在の奈良市五条町にある古いお屋敷の跡地を与えられました。鑑真はそこを、自分の弟子たちに戒律を専門に教えるための道場(お寺)として整備します。これが唐招提寺(とうしょうだいじ)です。「唐から来られた立派なお坊さん(鑑真)をお招きしたお寺」という意味が込められており、ここから日本の律宗(りっしゅう)という厳しいルールを守る仏教の宗派が始まりました。
唐招提寺の中心となる建物「金堂(こんどう)」は、鑑真の弟子たちの手によって建てられました。美しい瓦屋根と、ずらりと並ぶ太い柱が特徴で、古代ギリシャの神殿を思わせるような力強くも優雅な姿をしています。実は、奈良時代に建てられたお寺の金堂で、当時の姿のまま現在まで残っているのはこの唐招提寺の金堂だけです。国際色豊かな天平文化(てんぴょうぶんか)の息吹を現代に伝える最高傑作と言えます。
鑑真が日本にもたらしたのは、仏教のルールや立派な建築技術だけではありません。彼は中国の最先端の医学や薬の知識にも非常に詳しかったのです。目が見えないにもかかわらず、匂いや味、手触りだけで薬草の種類を正確に嗅ぎ分け、日本の人々に正しい薬の調合方法を教えました。そのため、鑑真は「日本の医薬の祖」としても深く尊敬されており、彼がもたらした知識は多くの日本人の命を救う決定的な契機となりました。
唐招提寺が建てられてから4年後の763年、鑑真は日本の地で71歳で静かにこの世を去りました。彼の死を深く悲しんだ弟子たちは、鑑真の姿を生き写しにした「鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)」を作りました。これは日本最古の肖像彫刻として国宝に指定されています。命がけで海を渡り、日本の仏教と文化を根本から引き上げた鑑真の不屈の人生は、日本と中国の友好の歴史を象徴する歴史の重要な分岐点となったのです。