江戸幕府の第3代将軍・徳川家光は、キリスト教の広まりが幕府を脅かすことを恐れ、外国との付き合い方を厳しく制限していきました。日本人の海外渡航を禁じ、1639年には最大の警戒相手であったポルトガル船の来航を完全に禁止します(第5次鎖国令)。しかし、これだけで幕府の外交政策がすべて完成したわけではありませんでした。最後に残されたヨーロッパの国であるオランダの扱いが、大きな課題として残っていたのです。
当時、オランダは平戸(長崎県)に商館(貿易の拠点)を構えていました。しかし、彼らが新しく建てた頑丈な石造りの倉庫を見た幕府の役人は激怒します。「倉庫に西暦(キリスト教の年号)が刻まれている!すぐに壊せ!」と命じたのです。これは、オランダ人が本当に幕府の命令に絶対服従するかを試す踏み絵でした。オランダ商館長はこの理不尽な命令に涙を飲んで従い、自分たちで作った真新しい倉庫を自らの手で破壊しました。
オランダの絶対的な服従を確認した幕府は、1641年、彼らに平戸から長崎の出島(でじま)への強制移転を命じます。出島はもともとポルトガル人を収容するために莫大なお金をかけて海を埋め立てて作った人工の島でしたが、彼らを追放したため空っぽになっていました。「これからは、この狭い島から一歩も出てはならない」。こうして、オランダ人は出島に完全に隔離され、徹底的な監視下で貿易を行うことになりました。
オランダ商館が出島に移された1641年をもって、日本人の海外渡航禁止と、外国船の徹底的な管理という江戸幕府の目標はすべて達成されました。後世の歴史家が鎖国(さこく)と呼ぶ、幕府による強力な対外コントロール体制がここに完成したのです。ただし、国を完全に閉ざしたわけではありません。幕府は自らの権威を高めるために、あえて限られた窓口を開放し、そこから得られる富と最新の海外情報を自分たちだけで独占しようと賢く計算していたのです。
鎖国体制下で開かれた窓口は「四つの口」と呼ばれます。その一つ目で最も重要なのが、幕府が直接支配した長崎です。ここでは、キリスト教を布教しないと約束したオランダと、お隣の中国(明、のちに清)の船だけが入港を許されました。ヨーロッパの最新の科学技術や薬、そして中国の高級な絹糸などがこの長崎を通じて日本にもたらされ、幕府に莫大な利益と富をもたらす、いわば「世界へと繋がる独占的な玄関」でした。
幕府はオランダに対し、貿易を許す条件として「海外で起きた重要なニュースを毎年必ず報告すること」を義務付けました。オランダの船長が提出したこのレポートを「オランダ風説書(ふうせつがき)」と呼びます。幕府のトップたちはこの極秘レポートを読むことで、遠いヨーロッパでの戦争やアジアの情勢など、世界中の最新動向を正確に把握していました。日本は国を閉ざしながらも、決して世界の動きから孤立していたわけではないのです。
二つ目の窓口は、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ対馬藩(長崎県)の宗(そう)氏が担当した「対馬の口」です。かつて豊臣秀吉の朝鮮出兵で最悪になった日本と朝鮮の関係を、宗氏が必死に交渉して修復しました。その結果、将軍の代が替わるごとに朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)という大規模なお祝いの使節団が日本を訪れるようになります。彼らの華やかなパレードは、幕府の権威を日本中の人々にアピールする絶好のイベントでした。
三つ目の窓口は、九州の南にある薩摩藩(鹿児島県)の島津氏が担当した「薩摩の口」です。薩摩藩は武力で南の独立国である琉球王国(現在の沖縄県)を服従させ、中国との貿易を密かに続けさせてその利益を吸い上げました。さらに琉球の使節団を江戸の将軍のもとへ挨拶に行かせることで、「幕府の威光は遠い南の異国にまで及んでいるのだ」という強力なパフォーマンスに利用しました。薩摩藩はこの特権によって強大な力を蓄えていきます。
最後の四つ目の窓口は、北海道の南端を治めていた松前藩(北海道)が担当した「松前の口」です。松前藩は、広大な蝦夷地(えぞち)に住む先住民族であるアイヌの人々と独占的に交易を行う権利を幕府から与えられました。米が育たない寒い土地でしたが、アイヌの人々が獲るサケや昆布、毛皮などの貴重な特産品を安く買い叩くことで大きな利益を得ました。しかし、不平等な取引はのちにアイヌの人々の激しい反乱を招くことにもなります。
オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌという異なる相手と、「四つの口」を通じて絶妙な距離感で付き合う。この完成された鎖国体制は、外国からの軍事的な侵略やキリスト教による反乱を完全に防ぐ、歴史の決定的な分岐点となりました。海外の争いに巻き込まれることなく、国内の産業や町人文化が豊かに花開く、世界でも類を見ない約200年もの長く安定した「江戸の平和(パクス・トクガワーナ)」を支える強力な土台となったのです。