幕府滅亡の最大の原因は、数十年前に起きた外国からの侵略戦争(元寇)です。武士たちは命がけで日本を守り抜きましたが、防衛戦だったため幕府は奪う土地がなく、十分なご褒美(恩賞)をあげられませんでした。借金に苦しむ武士たちは「命がけで戦ったのに見捨てられた!」「今の幕府はダメだ!」と、御恩と奉公の信頼関係は崩れ去り、幕府への怒りと不満をマグマのように溜め込んでいたのです。
武士たちが強い不満を抱える中、「今こそ幕府を倒し、天皇が中心の政治を取り戻す大チャンスだ!」と立ち上がったのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。彼は鎌倉幕府の力が弱まっていることを見抜き、全国の不満を持つ武士たちや、お寺の勢力に向けて「私と一緒に幕府を倒そう!」と秘密の手紙(綸旨)を送り、倒幕の巨大な計画を密かにスタートさせました。
しかし、後醍醐天皇の倒幕計画はスパイによって幕府にバレてしまいます(正中の変・元弘の乱)。激怒した幕府は、後醍醐天皇を捕まえて隠岐(おき:島根県の離島)へ島流しにしてしまいました。「天皇を追放したし、これで反乱は終わった」と幕府は安心しましたが、天皇は全く諦めていませんでした。この絶対に諦めない天皇の不屈の執念が、不満を持つ武士たちの心を動かし、歴史の巨大なドミノを倒すことになります。
島流しにされた天皇の代わりに大活躍したのが、河内国(大阪府)の悪党(幕府に従わない新興武士)であった楠木正成(くすのきまさしげ)です。彼は千早城(ちはやじょう)という険しい山城に立てこもり、落石や熱湯、さらにはワラ人形を使った奇想天外なゲリラ戦法を駆使しました。何十万という幕府の大軍をたった数千人で長期間にわたって釘付けにするという、歴史に残る大番狂わせを演じたのです。
楠木正成が幕府の最強軍団を引きつけている隙に、大事件が起きます。なんと、後醍醐天皇が監視の目をくぐり抜け、流されていた隠岐から漁船に隠れて脱出することに成功したのです!天皇が鳥取県の船上山(せんじょうさん)でふたたび倒幕の旗を掲げると、「天皇が帰ってきた!今度こそ幕府を倒すぞ!」と全国の武士たちが勇気づけられ、堰を切ったように一斉に反乱を起こし始めました。幕府の包囲網は完全に崩壊します。
大パニックになった幕府は、反乱を鎮圧するためにエース級の最強武将である足利尊氏(あしかがたかうじ)を大将として京都へ派遣します。しかし、尊氏も心の中では「もうこの幕府には未来がない」と見切りをつけていました。なんと尊氏は京都に着くやいなや、あっさりと天皇側に寝返り(裏切り)、幕府の京都の重要拠点である六波羅探題(ろくはらたんだい)をあっという間に攻め滅ぼしてしまったのです!
尊氏の裏切りの大ニュースが関東に届くと、今度は上野国(群馬県)で有力御家人の新田義貞(にったよしさだ)が立ち上がります。義貞は「今こそ北条氏を倒す時!」と兵を挙げ、鎌倉街道を南下して進撃を開始。最初はわずかな人数でしたが、幕府に不満を持つ関東中の武士たちが雪だるま式にどんどん合流し、あっという間に数十万の大軍へと膨れ上がり、幕府の本拠地である鎌倉へと迫りました。絶対無敵と思われていた幕府は、もはや風前の灯火でした。
鎌倉は「前は海、後ろは山」に囲まれた天然の要塞都市であり、幕府軍の必死の防衛の前に新田軍も最初は立ち往生します。しかし、義貞は海に突き出た稲村ヶ崎(いなむらがさき)という険しい難所からの強行突破を図ります。伝説では、義貞が黄金の剣を海に投げ入れて神に祈ると、奇跡的に潮が引いて砂浜の道ができ、そこから大軍が一気に鎌倉の町へなだれ込んだと語り継がれています。この奇跡の突破により、幕府の鉄壁の防衛線はついに崩壊しました。
新田軍が市街地に突入すると、鎌倉の町はたちまち激しい火の海となりました。幕府の実質的なトップであった14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)は「もはやこれまで」と敗北を悟り、一族や家臣たち数百人とともに、菩提寺である東勝寺(とうしょうじ)で自害して果てました。1192年の源頼朝の将軍就任から約150年続いた武士の政権・鎌倉幕府は、ここに完全に滅亡したのです。燃え落ちる鎌倉とともに、ひとつの時代が終わりました。
幕府が滅んだことで、後醍醐天皇の悲願であった天皇中心の新しい政治「建武の新政(けんむのしんせい)」がスタートします。しかし、この後に武士たちへのご褒美(恩賞)をケチったことで再び武士の不満が大爆発。幕府を倒すために手を取り合ったはずの足利尊氏と後醍醐天皇が今度は敵同士となり、日本はドロドロの「南北朝時代」へと転がり落ちていきます。幕府滅亡は、さらなる大乱世の入り口に過ぎなかったのです。