6世紀の終わり、中国大陸で約300年ぶりに国を統一した超巨大帝国が誕生しました。それが「隋(ずい)」です。当時の日本(倭国)は、朝鮮半島での影響力を弱めており、「このままでは強大な隋に飲み込まれてしまうかもしれない!」という強烈な危機感を持っていました。そこで、隋の進んだ文化や政治の仕組みを学び、国を守るための最先端の知識を手に入れるため、命がけで海を渡る使節団の派遣を決定したのです。
記念すべき第1回目の遣隋使は600年に派遣されました。しかし、日本の歴史書(日本書紀)にはこの記録がなく、中国の歴史書『隋書(ずいしょ)』にだけ書かれています。なぜでしょうか?実は、使者が日本の政治の仕組みを隋の皇帝(文帝)に説明したところ、「そんな野蛮なルールはおかしいから変えなさい」と呆れられて笑われてしまったのです。この屈辱的な失敗を、日本側は恥ずかしくて歴史書に書けなかったのだと言われています。
「このままでは世界の国々からバカにされる!」と焦った推古天皇と聖徳太子は、日本を「文明国」として認めてもらうために猛スピードで国のシステムを大改造します。家柄に関係なく才能ある人を役人にする冠位十二階(かんいじゅうにかい)や、役人の心構えを示した十七条の憲法を立て続けに制定しました。「これでどうだ!」と自信を持った聖徳太子は、再び隋へ使者を送る準備を整えます。
607年、国家大改造を終えた日本は、第2回の遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を派遣します。彼が隋の皇帝・煬帝(ようだい)に渡した手紙の書き出しが、超有名です。「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」。これは「太陽が昇る国(日本)の皇帝から、太陽が沈む国(隋)の皇帝へお手紙を送ります。お元気ですか?」という意味で、なんと日本と隋が「対等」であると主張する強気すぎる内容でした。
この手紙を読んだ隋の皇帝・煬帝は、「野蛮な国の王が、私と同じ『天子』を名乗るとは生意気だ!」と激怒しました。普通なら殺されてもおかしくない状況ですが、小野妹子は無事に帰国し、さらに隋からの使者(裴世清)まで連れて帰ってきました。実は当時、隋はお隣の高句麗(こうくり)という国と戦争の準備をしており、「ここで日本と揉めて、高句麗の味方にされたら厄介だ」という大人の事情があったのです。聖徳太子の絶妙な外交センスが光ります。
遣隋使の本当の目的は、手紙を渡すことだけではありません。小野妹子と一緒に、たくさんの若い留学生や僧侶たちが隋へ渡りました。高向玄理(たかむこのくろまろ)や旻(みん)といった優秀な若者たちは、何十年も中国に滞在し、進んだ法律、政治の仕組み、仏教の教えなどを徹底的に学びました。当時の船旅は遭難する確率が非常に高く、まさに命がけで日本の未来を変えるための「知識の宝箱」を取りに行ったのです。
隋はその後すぐに滅びて唐(とう)という国に変わりますが、遣隋使で中国へ渡った留学生たちは、数十年後に日本へ帰国します。そして彼らが持ち帰った最新の知識は、中大兄皇子や中臣鎌足らが新しい国づくりを目指す大化の改新(たいかのかいしん)の強力な土台となりました。遣隋使の派遣は、日本が「天皇を中心とした本格的な国家」へと急成長していくための、最初にして最大の特大ドミノだったのです。