1590年に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉にとって、次なる最大の課題は「いかにしてこの平和な世の中を長続きさせるか」でした。戦国時代は「下剋上(げこくじょう)」の時代であり、実力さえあれば農民からでも武士になり、大名へと成り上がることが可能でした。しかし、誰もが武器を持ち、自由に身分を変えられる社会は、いつまた反乱や戦争が起きるか分からない不安定な状態だったのです。
秀吉自身、もともとは尾張国(愛知県)の貧しい農民の出身から、天下人にまで大出世を果たした「下剋上」の最大の成功者でした。しかし、自分が天下を取ったからには、自分と同じように下から権力を奪おうとする者が現れるのを絶対に防がなければなりません。「自分が通ってきた出世の扉を、自分の後ろで固く閉ざす」。これが、秀吉が身分を固定しようとした最大の理由でした。
そこで1591年、秀吉は全国の大名に対して身分統制令(みぶんとうせいれい)を発布します。これは、大きく分けて三つの厳しいルールから成り立っていました。一つ目は、「武士に仕えていた者が、勝手に武士をやめて農民や商人になってはいけない」という武士に対するルールです。一度主君を持った武士は、その身分を勝手に放棄して別の職業に転職することが固く禁じられました。
二つ目のルールは、農民に対するものです。「農民は自分の田畑を勝手に離れて、商人や職人になってはいけない」。当時の日本にとって、米はお金と同じくらい重要なものでした。農民が農業をやめて町へ出てしまうと、国全体の米の収穫量が減り、税金である年貢(ねんぐ)を集める武士たちの生活が成り立たなくなってしまいます。そのため、農民を土地に強く縛り付ける必要があったのです。
三つ目のルールは、「ルールを破って逃げ出した者を、他の村や町で絶対に匿ってはいけない」というものでした。もし逃亡者をこっそり隠しているのがバレた場合、その者を匿った村や町の人間も連帯責任として厳しく処罰されました。この徹底した監視システムにより、人々は生まれついた身分や職業、そして住んでいる場所から勝手に移動することが事実上不可能になりました。
翌1592年、秀吉は身分統制令をさらに徹底させるため、関白の豊臣秀次を通じて人掃令(ひとばらいれい)と呼ばれる全国規模の戸籍調査を行いました。これは、日本中のすべての家を一軒ずつ調べ、「誰が、どこで、何の仕事をしているか」を細かく台帳に記録させるものです。国が国民一人ひとりの身分と職業を正確に把握することで、誰も誤魔化しが効かない絶対的な身分管理システムが作られていきました。
身分統制令の数年前に出されていた刀狩(かたながり)も、この身分固定の大きな役割を果たしていました。農民から武器を没収したことで、「武器を持って戦うのは武士だけ」という明確な役割分担が生まれました。武器を奪われた農民は反乱を起こす力を失い、農業に専念するしかなくなります。身分統制令と刀狩は、セットになることで初めて絶大な効果を発揮する強力な政策だったのです。
さらに、秀吉が行った全国的な土地調査である太閤検地(たいこうけんち)も深く関わっています。検地によって「この田んぼの持ち主は誰か」が帳簿に登録されると、その農民は土地の所有権を認められる代わりに、決められた年貢を納める義務を負いました。農民が土地に縛り付けられる身分統制令のルールは、この太閤検地で完成した税金システムを確実に機能させるための仕組みでもありました。
刀狩、太閤検地、そしてこの身分統制令という秀吉の三つの大きな政策によって、日本の社会構造は根本から変わりました。武士は城下町に集まって政治や軍事を担当し、農民は村に住んで農業に専念するという、職業と住む場所が完全に分かれる兵農分離(へいのうぶんり)がここに完成したのです。武士と農民の境目が曖昧だった戦国時代は、名実ともに終わりを告げました。
秀吉が定めたこの厳格な身分制度は、のちに成立する江戸幕府にもそのまま引き継がれていきます。武士を頂点とし、その下に農民や町人(職人・商人)が位置する「士農工商(しのうこうしょう)」という、約260年間も続く平和で固定化された社会構造の基礎となりました。身分統制令は、日本の社会が中世の流動的な状態から近世の安定した体制へと移り変わる、歴史の決定的な契機となった法令なのです。