1221年の承久の乱で朝廷に勝利した鎌倉幕府は、西日本にも勢力を伸ばして絶頂期を迎えます。しかし1224年から1225年にかけて、幕府を立ち上げから支えてきた「尼将軍」北条政子や、天才的な政治顧問であった大江広元(おおえのひろもと)といったカリスマ的な指導者たちが次々とこの世を去ってしまいます。頼れる精神的支柱を一気に失い、幕府は深刻なリーダー不在の危機に直面しました。
この絶体絶命のピンチに、第3代執権(しっけん:将軍の代わりに政治を行うトップ)として幕府の舵取りを任されたのが北条泰時(ほうじょうやすとき)です。泰時は非常に真面目で責任感の強い人物でしたが、「自分には政子様や大江殿のような圧倒的なカリスマ性はない。一人で幕府の全てを取り仕切ることは不可能だ」と、自らの力量と重圧の狭間で深く悩んでいました。
これまで鎌倉幕府の政治は、一部の有力者が独裁的に物事を決める傾向がありました。しかし、圧倒的なカリスマが不在となった今、独裁を続ければ御家人(将軍に仕える武士)たちの間に不満がたまり、幕府が内部から崩壊してしまう危険がありました。泰時は、一部の人間だけで勝手に政治を行う古いスタイルを完全に捨て去り、新しい時代に合った政治システムを創り出す決意を固めます。
泰時がまず行ったのが、権力の分散です。自分一人で決断するのを避けるため、1225年、頼りになる叔父の北条時房(ほうじょうときふさ)を、執権をサポートするサブリーダーである連署(れんしょ)という新たな役職に任命しました。重要な書類には、執権と連署の二人が必ず並んでサインをする(連署する)という、権力の独走を防ぐための画期的なシステムでした。
さらに泰時は、幕府の重要な政治や裁判の決定を、もっと多くの有能な人物たちと話し合って決める「合議制(ごうぎせい)」という仕組みを思いつきます。「みんなで知恵を出し合い、みんなが納得するルールで国を治める」。これこそが、カリスマを持たない泰時が、血の気の多い鎌倉武士たちをまとめ上げ、幕府への信頼を維持するための究極の解決策だったのです。
そして1225年、歴史のテストに必ず出る評定衆(ひょうじょうしゅう)という新たな役職が設置されました。これは、政治や裁判の最終的な決定を下すための「最高会議のメンバー」です。泰時は、幕府の有力な武士や、京都から招いた法律に詳しい学者たちの中から、特に優秀で信頼できる11人を初代の評定衆として選び出し、幕府の中枢に据えました。
執権の泰時、連署の時房、そして11人の評定衆を合わせた合計13人が、鎌倉幕府の最高首脳陣となりました。彼らは定期的に会議(評定)を開き、領地のトラブルなどの難しい裁判や、国家の重要な政策について徹底的に議論しました。この「13人の合議制」と呼ばれる強固なシステムによって、一部の者の思惑に左右されない、公平で客観的な政治が行われるようになったのです。
評定衆の会議には、画期的なルールがありました。それは「会議の席では、身分の上下に関係なく、誰もが自分の意見を自由に言ってよい」というものです。トップである執権の泰時に対しても、間違っていると思えば堂々と反論することが許されました。この風通しの良い会議の仕組みが、多くの武士たちに「幕府の政治は理にかなっていて公平だ」という強い安心感を与えたのです。
評定衆が設置された最大の目的の一つは、武士たちの一番の関心事である「土地をめぐる裁判」を正確に解決することでした。複数の専門家が話し合って決めるため、それまで権力者の気分で左右されることもあった裁判が、誰もが納得する形で行われるようになりました。これによって、武士たちの幕府への信頼は飛躍的に高まり、鎌倉幕府の基盤はより強固なものとなりました。
北条泰時が生み出した評定衆による合議制は、幕府の政治を個人の独裁から「組織による支配」へと進化させました。そして、この会議で話し合われた様々な判例やルールが積み重なり、のちに制定される日本初の武家法・御成敗式目(ごせいばいしきもく)へと結実していくのです。評定衆の設置は、鎌倉幕府の法と統治のシステムを完成に導いた歴史の決定的な分岐点と言えます。