1868年4月の江戸城無血開城によって江戸幕府は事実上消滅しましたが、それに納得できない男がいました。旧幕府海軍のトップ・榎本武揚です。彼は新政府軍への軍艦の引き渡しを断固として拒否し、最強の軍艦「開陽丸」など8隻の艦隊を引き連れて江戸湾から脱走しました。目指すは未開の地である蝦夷地(現在の北海道)です。「幕府に忠誠を誓う武士たちのための新しい国を創る!」という壮大な夢を抱いての、命がけの船出でした。
北へ向かった榎本艦隊は、東北地方の激戦で敗れ去った旧幕府軍の残党を次々と船に乗せていきました。その中には、あの新選組の鬼の副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)らの姿もありました。1868年10月、ついに蝦夷地に上陸した彼らは、怒涛の勢いで箱館(現在の函館市)を制圧します。そして、星の形をした西洋式の巨大な要塞である五稜郭(ごりょうかく)を占領し、ここを自分たちの新しい国の本拠地として定めました。
五稜郭を拠点とした旧幕府軍は、1868年12月に画期的な試みを行います。なんと、日本史上初となる「選挙」を実施したのです。士官以上の者たちによる投票の結果、榎本武揚が初代総裁(大統領)に選ばれました。こうして、蝦夷地を支配する事実上の独立政権、通称蝦夷共和国が樹立されます。新政府軍からは単なる反乱軍と呼ばれましたが、彼らは武士の誇りをかけた「新しい国づくり」に本気で取り組んでいたのです。
初代総裁となった榎本武揚は、オランダへの留学経験があり、国際法や最新の科学技術に精通する超エリートでした。彼は諸外国の領事たちと巧みに交渉し、蝦夷共和国を「事実上の独立国(交戦団体)」として認めさせることに成功します。これにより、イギリスやフランスは新政府軍と旧幕府軍の戦いに対して「中立」の立場をとることになりました。榎本の優れた外交センスによって、彼らの夢はあと一歩で現実のものになろうとしていたのです。
この蝦夷共和国で、軍事の要として大活躍したのが土方歳三です。「陸軍奉行並(りくぐんぶぎょうなみ)」という軍のナンバー2に就任した土方は、京都の池田屋事件などで見せた剣客としての顔から、近代的な軍隊を指揮する名将へと成長していました。厳しいルールで軍隊をまとめ上げながらも、兵士たちには自ら酒を振る舞うなど、皆から「母のように慕われる」カリスマ的なリーダーとして、旧幕府軍の精神的支柱となっていました。
しかし、蝦夷共和国の平和は長くは続きませんでした。最大の戦力だった最強軍艦「開陽丸」が、猛吹雪の嵐により江差の海で座礁し、沈没してしまうという大悲劇に見舞われたのです。海軍の要を失ったことで、旧幕府軍の優位は完全に崩れ去りました。そして翌年の1869年春、雪解けを待っていた新政府軍が、最新鋭の装甲軍艦「甲鉄艦(こうてつかん)」を先頭にした圧倒的な大軍勢で、ついに北海道への上陸作戦を開始しました。
新政府軍の「甲鉄艦」の恐ろしい破壊力を知っていた土方歳三たちは、起死回生の奇襲作戦を決行します。敵の艦隊が停泊する宮古湾(岩手県)に船でこっそり近づき、敵の船に直接飛び乗って甲鉄艦を奪い取るという、アボルダージュ(斬り込み)作戦です。土方らの部隊は勇敢に敵船へ突入しましたが、最新のガトリング砲の前に次々と倒れ、作戦は失敗に終わりました。旧幕府軍は完全に制海権を失い、絶体絶命のピンチに陥ります。
陸と海の両方から猛攻を仕掛ける新政府軍により、旧幕府軍の陣地は次々と落とされ、ついに箱館の町も占領されました。1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が始まります。土方歳三は、箱館を奪い返すためにわずかな兵を率いて出撃しました。しかし、一本木関門の近くで馬に乗って指揮をとっていた土方の腹部を、敵の銃弾が容赦なく貫きます。幕末を駆け抜けた最強のサムライは、こうして蝦夷の大地で壮絶な最期を遂げたのです。
土方歳三の戦死と、五稜郭への激しい砲撃を前に、初代総裁の榎本武揚はついに覚悟を決めます。彼はオランダ留学時代に持ち帰った貴重な国際法の本(海律全書)が戦火で燃えるのを惜しみ、敵将の黒田清隆(くろだきよたか)に贈りました。黒田はその才能に深く感動し、酒や食料を五稜郭へ送って降伏を勧めます。1869年5月18日、榎本は五稜郭を開城して降伏。これにより箱館戦争は終結し、蝦夷共和国の夢は儚く散りました。
降伏した榎本武揚は、反乱の首謀者として死刑になるはずでした。しかし、「彼のような優秀な人材を殺しては、日本の近代化の損失になる!」と、敵であった黒田清隆らが丸坊主になってまで命懸けで助命を嘆願しました。その結果、榎本は特赦で釈放されます。その後、かつての敵である明治新政府の役人として登用され、ロシアとの交渉で条約を結ぶなど、近代日本の発展に大きく貢献するという奇跡の復活を遂げる歴史の分岐点となりました。