飛鳥時代から奈良時代へ移り変わる頃、大化の改新で活躍した中臣鎌足の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)は、天皇と親戚関係を結んで絶大な権力を握りました。その不比等の死後、彼が築いた巨大な権力と野望をそのまま受け継いだのが、南家、北家、式家、京家という四つの家系のルーツとなる藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい)でした。彼らは朝廷の重要な役職を独占し、藤原氏の黄金時代を築き上げようと画策します。
四兄弟が権力を握る上で、最も邪魔だったのが皇族のトップである長屋王(ながやおう)でした。長屋王は真面目で国民思いの政治家であり、一部の貴族だけが権力を独占する藤原氏のやり方を厳しく批判していました。そこで729年、四兄弟は「長屋王が国を乗っ取ろうとしている」という嘘の密告をでっち上げ、軍隊で屋敷を包囲して彼を自害へと追い込みます(長屋王の変)。邪魔者を消した四兄弟は、政治の実権を完全に掌握しました。
四兄弟が栄華を極めていた735年、九州の大宰府周辺で恐ろしい感染症である天然痘(てんねんとう)が発生しました。当時は「疱瘡(ほうそう)」と呼ばれ、高熱と全身の湿疹を伴い、致死率が非常に高い未知の病でした。この病気は遣新羅使などの外交使節団の移動に伴って大陸から持ち込まれたと考えられており、九州地方で猛威を振るった後、人々の移動ルートに乗って徐々に日本の中心である平城京(奈良県)へと迫ってきました。
737年、ついに天然痘の猛威が政治の中心地である平城京を直撃します。当時は医学が発達しておらず、有効な治療法やワクチンなど存在しません。「悪い鬼が病気を広めている」と信じられ、人々は祈るしかありませんでした。密集して暮らす都の人々の間で感染は爆発的に広がり、農民から貴族まで身分を問わず次々と倒れていきます。日本の総人口の約3割が命を落としたとも言われる、日本史上最悪のパンデミックとなってしまったのです。
この目に見えない恐ろしい敵は、厳重な警備に守られていたはずの最高権力者たちにも容赦なく襲いかかりました。737年の夏、まず四男の麻呂が病死すると、そのわずか数日後には三男の宇合が死亡します。さらにその翌月には次男の房前、長男の武智麻呂も次々と天然痘に倒れ、帰らぬ人となりました。かつて長屋王を死に追いやった藤原四兄弟は、わずか数ヶ月の間に全員がこの世を去るという衝撃的な最期を遂げたのです。
最高権力者である四兄弟が立て続けに謎の病で亡くなったことは、朝廷の貴族たちを恐怖のどん底に陥れました。「これは無実の罪で殺された長屋王の祟り(怨霊)に違いない!」という恐ろしい噂が平城京中を駆け巡ります。四兄弟だけでなく、彼らを支えていた多くの政府高官たちも次々と病死したため、朝廷の行政機関は完全に機能停止に陥り、日本の政治システムは崩壊の危機に直面しました。
四兄弟が全滅したことで、朝廷内における藤原氏の勢力は一気に衰退しました。この空前の政治的空白を埋めるために、聖武天皇(しょうむてんのう)によって新たな政治のトップに抜擢されたのが、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)でした。諸兄は、唐(中国)での留学から帰国したばかりの吉備真備や僧の玄昉といった新しい人材を積極的に登用し、藤原氏の息がかかっていない全く新しい政権を作り上げようと奮闘します。
橘諸兄の政権のもとで、かつて我が世の春を謳歌していた藤原氏の若者たちは完全に冷遇されてしまいました。特に式家の若きエースだった藤原広嗣は、「身分の低い吉備真備や玄昉が政治を操っているせいで国が乱れているのだ!」と激しく不満を募らせます。大宰府へ左遷された広嗣は、740年に九州で大規模な軍事反乱(藤原広嗣の乱)を起こし、奈良時代の政治的な混乱はさらに深い泥沼へとハマっていきました。
疫病の大流行による惨状、長屋王の怨霊への恐怖、そして頼りにしていた藤原四兄弟の全滅。さらには九州での大規模な反乱まで重なり、聖武天皇の精神は限界を迎えていました。「私の徳が足りないから、こんなにも国が乱れるのだ…」と深く悩んだ天皇は、仏教の力(鎮護国家の思想)で国を救うしかないと決意します。こうして天皇は都を転々と移し替える異常な行動に出た後、全国に国分寺を建てる命令を出しました。
そして743年、聖武天皇はすべての国民の力を結集して巨大な仏像を造る「大仏造立の詔」を発布します。もし藤原四兄弟が天然痘で死亡していなければ、政治の主導権は彼らが握り続け、聖武天皇がこれほどまでに仏教に深くのめり込むことはなかったかもしれません。四兄弟のあっけない死は、藤原氏の権力構造を一度リセットさせ、奈良時代が壮大な仏教国家へと姿を変えていく歴史の重大な転換点となったのです。