藤原京の建設を最初に計画したのは、「壬申の乱」に勝利して天皇の権力を絶対的なものにした天武天皇(てんむてんのう)でした。しかし、彼は都の完成を見ることなく病気で亡くなってしまいます。その悲しみの中、夫の遺志を強く引き継いだのが妻の持統天皇(じとうてんのう)でした。彼女は「夫が夢見た、誰もが驚くような巨大で立派な都を絶対に完成させてみせる!」と固く決意し、国家の全力を挙げてこの未曾有の巨大プロジェクトを力強く押し進め、ついに完成させたのです。
藤原京の最大の特徴は、日本で初めて条坊制(じょうぼうせい)という中国(唐)の最新デザインを取り入れたことです。これは道路を縦横にまっすぐ走らせて、町全体を「碁盤の目」のように綺麗に四角く区切る画期的なシステムでした。これまでの都は天皇の家(宮殿)があるだけの簡素なものでしたが、藤原京は貴族の邸宅や役所、お寺などが計画的に配置された、当時としては信じられないほどシステマチックで巨大な大都市だったのです。テストにも頻出する用語なので要チェックです。
実は藤原京ができるまで、日本の都は「天皇が代わるたびに別の場所へ引っ越す」のが当たり前でした。古い場所は穢れ(けがれ)が溜まると考えられていたからです。しかし、持統天皇が完成させた藤原京は、次の文武天皇、その次の元明天皇と、三代にわたって同じ場所が使い続けられました。引っ越しをやめて一つの巨大な都に腰を据えることで、役人たちが毎日同じ役所に通って仕事をする、現代のような政治システムが日本で初めて定着することになった、歴史の大きな転換点です。
藤原京が都だった701年に、歴史を大きく動かす特大ドミノが倒れます。国の政治や刑罰のルールを細かく定めた大宝律令(たいほうりつりょう)が完成したのです。これにより、天皇を頂点とした強力な中央集権国家(律令国家)の仕組みがバッチリ整いました。さらに、この頃から自分たちの国のことを「倭(わ)」ではなく「日本」と呼び始めたと考えられています。藤原京は、まさに私たちが知る「日本」という国が本格的にスタートした、とても記念すべき場所なのです。
そんなに立派で巨大だった藤原京ですが、実はたった16年間しか都として使われませんでした。710年に、少し北の平城京(へいじょうきょう)へとまた大規模なお引っ越しをしてしまうのです。「水はけが悪くて不衛生だった」「中国の本当のルールと少し違っていたから作り直した」など理由は諸説あります。しかし、藤原京での経験と失敗があったからこそ、次の平城京でさらに完璧な大都市が完成し、華やかな奈良時代へと繋がっていったことは間違いありません。