飛鳥時代から奈良時代へ移り変わる激動の中、聖武天皇は、文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である宮子との間に生まれました。実は当時、天皇のお母さんになれるのは皇族だけという暗黙のルールがありましたが、不比等は自分の孫を天皇にするためにその壁を打破しました。日本で初めて「藤原氏の血を引く天皇」として誕生した彼は、一族の巨大な野望と期待を一身に背負った、まさにVIPなプリンスだったのです。
期待の星として生まれた彼ですが、わずか7歳で父親の文武天皇が亡くなってしまいます。自分が天皇になるにはまだ幼すぎたため、おばあちゃんの元明天皇(平城京を作った天皇)や、おばの元正天皇がリレー形式で「中継ぎの天皇」として、彼が大人になるまで必死に国を守り抜きました。周囲の大人たちの巨大な期待と重圧(プレッシャー)の中、彼は「絶対に立派な天皇にならなければならない」という強い責任感を育てながら、孤独で厳しい青年時代を過ごしました。
724年、24歳になったプリンスは、おばの元正天皇からバトンを受け取り、ついに聖武天皇として即位します。そして即位後まもなく、自分の奥さんである光明皇后(こうみょうこうごう:藤原不比等の娘)を、皇族以外で初めて「皇后(天皇の正妻)」というトップの座につけました。これにより、藤原氏は「天皇のお母さん」と「天皇の奥さん」の両方のポジションを独占することになり、のちの平安時代に完成する藤原氏の絶対的な権力基盤(特大ドミノ)がここで完成したのです。
満を持して即位した聖武天皇ですが、彼の治世(国を治める時代)は、まるで呪われているかのような大パニックの連続でした。大地震や日照りによる大飢饉が発生し、さらに天然痘(てんねんとう)という恐ろしい疫病(パンデミック)が日本中を襲います。なんと、政治のトップにいて聖武天皇を支えていた藤原氏の四兄弟も、全員がこの疫病に感染して亡くなってしまい、日本の政治システムは完全に崩壊の危機に直面することになります。
パニックは自然災害だけではありません。藤原氏の四兄弟が亡くなった後、九州で不満を持った貴族が大規模な反乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。相次ぐ不幸に「自分の政治が悪いからだ」と深く悩み、パニックに陥った聖武天皇は、なんと首都である平城京を捨ててしまいます。約5年間の間に恭仁京(京都府)や紫香楽宮(滋賀県)などへ、あちこち都を移して逃げ回るという異常行動をとりました。これを「彷徨(ほうこう)の5年」と呼びます。
どうやっても不幸が止まらない絶望の中、聖武天皇は「人間の力ではもう限界だ。仏様の圧倒的なパワーで、この国を守ってもらうしかない!」と決心します。このように、仏教の教えで国を平和にしようとする考え方を鎮護国家(ちんごこっか)の思想と呼びます。天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)を建てるよう命じ、さらに国家の全財産をかけて東大寺に超巨大な仏像(大仏)を造るという、歴史的な大プロジェクトをスタートさせました。
聖武天皇の時代は、苦しいことばかりではありません。仏教を厚く保護したことで、唐(中国)やシルクロードの影響を受けた、非常に国際的で華やかな天平文化(てんぴょうぶんか)が花開きました。天皇自身も海外の珍しい宝物をたくさん集めており、彼が愛用した数々の宝物は、現在でも正倉院(しょうそういん)という巨大な倉庫に大切に保管されています。彼は、日本の文化を世界レベルへと引き上げた偉大なパトロンでもあったのです。
749年、聖武天皇は娘の孝謙天皇に位を譲って引退し、なんと自ら髪を剃って仏門に入り(出家)、天皇として初めて「お坊さん」になりました。国と人々を救うために、最後は自分自身も仏様に全てを捧げたのです。彼が即位してから始まった波乱万丈の時代は、日本の歴史において「天皇が最も仏教を頼り、そして最も美しい文化が生まれた激動の時代」として、今もなお人々の心を惹きつけてやみません。ここから、仏教勢力が力を強める時代へと進んでいきます。