江戸幕府はなぜキリスト教を厳しく弾圧したのでしょうか?理由は大きく2つあります。1つ目は「神様の前では皆平等」という教えが、幕府が作ろうとしている厳しい身分制度を壊してしまうと恐れたから。2つ目は、キリスト教の強い団結力を利用して、外国(スペインやポルトガル)が日本を乗っ取ろうとしているのではないかと強烈に警戒したからです。幕府にとってキリスト教は、国を滅ぼしかねない最大の脅威に見えていました。
豊臣秀吉の「バテレン追放令」以降も信仰は密かに続いていましたが、江戸幕府を開いた徳川家康はさらに厳しく取り締まるため「禁教令(きんきょうれい)」を出しました。そして第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の時代になると、弾圧はさらにエスカレート。「信者を一人残らず見つけ出して根絶やしにしろ!」という幕府の命令のもと、長崎などでキリシタンを探し出すための、ある残酷な方法が考案されることになります。
1628年頃、長崎奉行(長崎のトップの役人)がキリシタンを摘発するための画期的な方法を思いつきました。キリストや聖母マリアの姿が描かれた銅の板などを地面に置き、すべての人々に踏ませたのです。これが絵踏(えぶみ)の始まりです。「自分が信じている神様を足で踏みつけるなんて絶対にできない!」というキリスト教徒の心理を突いた、非常に残酷で効果的なあぶり出しのシステムでした。
ここでテストに頻出する超重要ポイントです!多くの人が間違えやすいのですが、キリストの絵板を「足で踏むという行為(制度)」のことを絵踏(えぶみ)と呼びます。一方、地面に置かれて「踏みつけられる絵の板(モノ)」のことを踏み絵(ふみえ)と呼びます。テストで「幕府が行ったキリシタンを見つけ出す制度(行為)は何ですか?」と聞かれたら、絶対に「絵踏」と答えましょう!引っかけ問題の定番です。
お正月になると、役人が各町を回り、子供からお年寄りまで全員に「絵踏」をさせました。信者ではない一般の人は平気で踏むことができますが、熱心なキリシタンにとっては地獄の瞬間です。どうしても踏めずに泣き崩れたり、立ちすくんでしまった者は「お前はキリシタンだな!」とすぐさま逮捕されました。捕まった者には恐ろしい拷問が待っており、信仰を捨てなければ死刑という過酷な運命が待っていました。
幕府は「絵踏」とセットで、さらに完璧なキリシタン対策を実行しました。それが宗門改(しゅうもんあらため)と寺請制度(てらうけせいど)です。国民全員を必ずどこかの仏教のお寺に所属させ、「この人は間違いなく仏教徒(うちのお寺のメンバー)ですよ」という証明書を発行させたのです。お寺を戸籍を管理する市役所のように使うことで、日本からキリシタンの居場所を完全に奪い去りました。
このような過酷な弾圧の中で、信者たちはどうしたのでしょうか?多くは泣く泣く信仰を捨てましたが、中には表面上は仏教徒のフリをして「絵踏」も行いながら、隠れてキリスト教を信じ続けた人々がいました。彼らを隠れキリシタンと呼びます。彼らは観音様の像をマリア様に見立てた「マリア観音」に祈りを捧げるなど、幕府の目を盗んで、命がけで自分たちの信仰を何百年も必死に守り抜いたのです。
「絵踏」をはじめとする幕府の容赦ないキリシタン弾圧と、それに伴う過酷な税の取り立ては、九州地方の農民たちの怒りを限界まで高めていきました。「もうこんな地獄のような生活は耐えられない!」この極限のストレスが、数年後の1637年、一人の少年・天草四郎をリーダーとした日本史上最大規模の農民反乱である島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)という大爆発を引き起こす、巨大な歴史のドミノとなっていくのです。