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禁中並公家諸法度 制定 きんちゅうならびにくげしょはっと せいてい 政治

🕒 1615年7月17日
📍 場所: 京都府 京都(二条城など) 👤 関連: 徳川家康
1615年、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康が、朝廷(天皇や公家)を厳しく統制するために発布した法律です。「天皇の第一の仕事は学問である」と定め、天皇から政治の実権を完全に奪い取りました。また、僧侶に高い位(紫衣)を与える権限なども幕府の許可が必要とされ、のちの紫衣事件の原因ともなります。大名を取り締まる武家諸法度と並んで、江戸幕府が日本を完全に支配するための決定的な契機となった重要な法令です。
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戦いの終わりと次なる標的

1615年、「大坂の陣」でついに豊臣氏を滅ぼした大御所・徳川家康(とくがわいえやす)。武力で敵を完全に排除した家康の次なる標的は、なんと京都にいる天皇と貴族たち(朝廷)でした。かつて朝廷は日本を支配するトップでしたが、武士の時代になってからも「官位」や「年号」を決めるなど、目に見えない特別な権威を持っていました。家康はこの権威を利用されることを恐れ、朝廷を江戸幕府のルールで完全に縛り付けようと考えたのです。
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朝廷と公家ってなに?

そもそも「朝廷」とは、天皇を中心として政治を行う京都の役所のことです。そして、そこで天皇に仕える貴族たちのことを「公家(くげ)」と呼びます。源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、政治の実権は武士に移っていましたが、武士のトップである「征夷大将軍」を任命するのは天皇の仕事でした。そのため、どんなに強い武将でも天皇の権威には頭が上がりませんでした。家康は、この伝統的な力関係を根底からひっくり返そうと計画したのです。
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法令の起草とブレーンたち

家康は、自分の信頼する優秀なお坊さんたちにこの新しい法律を作らせました。その中心となったのが、幕府の法律顧問であった金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。彼は中国の歴史書や日本の古い法律を徹底的に研究し、天皇や公家たちが絶対に逆らえないような論理的で厳格なルールを書き上げました。こうして完成したのが、歴史のテストに必ず出る禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)という全17ヶ条からなる法令です。
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第一条「天皇の仕事は学問!」

この法令の中で最も重要で、テストでもよく問われるのが第一条です。そこには「天皇が第一に行うべきことは、学問である」と明確に書かれています。これは「天皇は歴史や和歌などの勉強だけを一生懸命やっていればよく、幕府の政治には一切口を出してはならない」という、家康からの強烈なメッセージでした。日本のトップである天皇の役割を「学問」と「儀式」だけに限定し、政治の実権を江戸幕府が完全に奪い取った歴史的な瞬間です。
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席次も幕府が決める実力主義

法令は、公家たちのルールにも厳しく踏み込みました。それまでの朝廷では、家柄や伝統的なルールによって公家の「席次(座る順番や地位)」が決められていました。しかし家康は、「いくら家柄が良くても、才能や能力がない者は上の席に座ってはならない」と規定しました。一見すると実力主義の良いルールに見えますが、本当の狙いは「朝廷の伝統的なルールよりも、幕府が定めた法律の方が上である」ということを公家たちに徹底的に思い知らせることでした。
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紫衣の許可権と幕府の支配

さらに法令は、お寺や神社との関係にも制限をかけました。当時、天皇が優秀なお坊さんに紫色のお坊さんの服(紫衣:しえ)を与えることは、朝廷の大きな収入源でもありました。しかし法令では「幕府の許可なく勝手に紫衣を与えてはならない」と定められました。これを無視して後水尾天皇が紫衣を与えた結果、のちに幕府が処罰を下す紫衣事件(しえじけん)が起こります。天皇の決定すら幕府が覆すほど、幕府の権力が上回っていたのです。
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年号も勝手に変えさせない

天皇が持つ特別な権利の一つに、新しい「年号(元号)」を決める権利がありました。これまでは朝廷が吉日や災いなどを理由に頻繁に年号を変えていましたが、法令によって「年号を変える際も、日本の古いルールに従って幕府と相談して決めなければならない」とされました。時間の区切りである年号の決定権すらも幕府の管理下に置かれたことで、朝廷は自立した権力をほぼすべて失い、江戸幕府という巨大なシステムの枠組みの中に完全に組み込まれました。
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京都所司代による厳しい監視

禁中並公家諸法度を発布すると同時に、幕府は「京都所司代(きょうとしょしだい)」という役職の権限をさらに強化しました。京都所司代の主な仕事は、朝廷や西日本の大名たちが幕府に逆らう怪しい動きをしていないかを厳しく監視することです。公家たちは幕府の役人の目を常に気にしながら生活しなければならず、京都の御所は自由を奪われた鳥かごのような状態になりました。家康の張り巡らした監視の網は、朝廷を身動きできない状態にしたのです。
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武家諸法度との強力な両輪

この法令が出されたのと同じ1615年の7月、幕府は全国の大名たちを厳しく取り締まるための武家諸法度(ぶけしょはっと)も発布しています。「武家諸法度」で武力を持つ大名たちをコントロールし、「禁中並公家諸法度」で権威を持つ天皇や公家たちを封じ込める。この二つの法律は、江戸幕府が日本という国を完全に支配するための車の両輪でした。家康の緻密で冷酷なまでの計算が、徳川家の支配を盤石なものに仕上げたのです。
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260年の平和を支えた基礎工事

家康が作ったこの禁中並公家諸法度は、江戸時代が終わるまでの一度も改正されることなく、約260年間にわたって朝廷を縛り続けました。天皇は政治から完全に切り離された「象徴」のような存在となり、日本は幕府のもとで長く安定した平和な時代(江戸時代)を迎えます。しかし幕末になると、外国の脅威によって幕府の力が弱まり、再び天皇の権威が必要とされる時代がやってきます。この法令は、日本の国家のあり方を決定づけた歴史の重要な分岐点でした。
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