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田沼意次 老中就任 たぬまおきつぐ ろうじゅうしゅうにん 官職

🕒 1772年
📍 場所: 東京都 江戸城 👤 関連: 田沼意次
1772年、身分の低い家柄から異例の出世を遂げた田沼意次(たぬまおきつぐ)が、幕府の最高職である老中(ろうじゅう)に就任した出来事です。彼は従来の農業中心の政治から、商業や貿易を重視する新しい経済政策(田沼の政治)を推し進めました。商人から税金を取るために同業者組合である株仲間(かぶなかま)を積極的に認め、長崎貿易や蝦夷地(北海道)の開拓も計画します。しかし、賄賂(わいろ)が横行し、天明の大飢饉が起きたことで失脚しました。日本の資本主義的な経済発展の端緒を開いた重要な歴史の転換点です。
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足軽クラスからの大出世

江戸時代、幕府のトップである老中になれるのは代々決まった名門の武士だけでした。しかし、田沼意次は違いました。彼の家系はもともと足軽(一番身分の低い武士)クラスでしたが、意次はその類まれな才能と真面目な働きぶりで、第9代将軍・徳川家重の側近として見出されます。家重の言葉を誰よりも正確に理解し、次の第10代将軍・家治(いえはる)からも絶大な信頼を得て、ついには幕府の最高権力者へと駆け上がったのです。
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農業から商業への転換

老中となった意次は、これまでの幕府の常識を覆す新しい政治を始めます(田沼の政治)。それまでの江戸幕府は「お米(農業)」を中心とした経済でしたが、意次は「これからはお金(商業)の時代だ」と見抜いていました。農民からお米の税金を取るだけでは幕府の財政難は解決できないと考え、どんどん力と富をつけていた商人たちの経済力に目を向け、そこから新たな税金を集めるという画期的なシステムを考え出したのです。
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株仲間の公認と新たな税金

意次が目をつけたのは、商人たちの同業者組合である株仲間(かぶなかま)でした。彼は「幕府が商売を独占する権利(特権)を認めてあげる代わりに、営業税(冥加金や運上金)を納めなさい」というルールを作りました。これにより、商人たちは安心して商売を広げることができ、幕府も安定した大きなお金を手に入れることができたのです。お互いにとってメリットのあるこの政策により、江戸や大坂の町はかつてないほどの好景気に沸き立ちました。
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長崎貿易の拡大と「俵物」

さらに意次は、海外との貿易にも力を入れます。当時は鎖国をしていましたが、唯一開かれていた長崎での貿易を拡大しようとしたのです。中国(清)から銀などの貴重な金属を輸入するため、日本からは俵物(たわらもの)と呼ばれるフカヒレや干しアワビ、昆布などの海産物を大量に輸出しました。日本の特産品を海外に売って国の富を増やすという、現代の貿易国家・日本にも通じる非常に進んだ経済感覚を意次は持っていたのです。
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蝦夷地の開拓計画

意次の目は、遠く北の蝦夷地(現在の北海道)にも向けられていました。当時、ロシア人が度々やってくるようになっていたため、国防の危機感を持つとともに「蝦夷地を開拓してロシアと貿易をすれば、莫大な利益が出るはずだ」と考えたのです。彼は優秀な探検家である最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣し、現地の調査を行わせました。残念ながら意次の失脚によって計画は止まりますが、日本の北方開拓の端緒を開いた行動でした。
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賄賂が飛び交う政治

経済が活発になり、お金が世の中を回るようになると、悪い面も目立ち始めました。「お金を出せば特別な権利をもらえる」という仕組みを利用して、より良い商売の権利や役職を求めて、商人から武士へ、あるいは下の武士から上の武士へと、賄賂(わいろ:不正なお金)が頻繁に贈られるようになったのです。意次の屋敷には連日のように贈り物が山積みになり、「田沼の政治は金まみれだ」と、人々の間で強い批判の声が上がり始めました。
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浅間山の噴火と大飢饉

意次の政治に暗雲が立ち込める中、自然災害が日本を襲います。1783年、浅間山(あさまやま:群馬県・長野県)が大噴火を起こし、空が灰に覆われて異常気象と冷夏をもたらしました。農作物は全く育たず、東北地方を中心に多数の餓死者を出す天明の大飢饉(てんめいのだいききん)が発生します。食べるものを失った農民たちは一揆を起こし、江戸の町でも米屋が襲われる打ちこわしが頻発しました。世の中は不満と絶望に包まれます。
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悲劇の連続と失脚への道

「この大飢饉は、賄賂政治を行う田沼への天罰だ!」。人々の怒りの矛先は、最高権力者である意次へと向かいました。さらに、意次の後継者として期待されていた優秀な息子(意知)が、江戸城内で暗殺されるというショッキングな事件も起きます。そして最大の理解者であった第10代将軍・家治が病でこの世を去ると、意次をかばう者は誰もいなくなりました。ついに意次は老中をクビになり、その全権力を剥奪されてしまったのです。
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松平定信と寛政の改革

田沼意次が失脚した後、幕府の政治を引き継いだのは、真面目で厳しい武士の代表のような松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。定信は「田沼の金まみれの政治が世の中をダメにした」と強く批判し、商人から税金を取ることをやめ、質素倹約と農業中心の昔の政治に戻す寛政の改革(かんせいのかいかく)を始めます。賄賂は減りましたが、厳しすぎるルールによって世の中は窮屈になり、江戸の活気はすっかり失われてしまいました。
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再評価される先進的な政治

長らく「賄賂政治の悪人」として歴史の教科書で語られてきた田沼意次ですが、現代ではその評価が大きく変わっています。彼が目指した「商業や貿易による経済成長」は、当時の世界情勢を見据えた非常に先進的で合理的なものでした。農業だけでは国が豊かにならないという限界にいち早く気づき、日本の資本主義的な経済発展の決定的な契機を作った優秀な政治家として、彼の挑戦は日本の経済史において歴史の重要な分岐点として再評価されています。
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